ジョルジュ・ルオー といえば、あたかも溶岩を切り出して彩色して額装したかのような

ごつごつの厚塗りで描き出したキリスト像といったものがすぐさま思い浮かぶところですけれど、

おそらくは展覧会を主催した側も「そうしたイメージとは違うものがルオーにはありますよ」ということが
言いたかったのかもしれませんね。


東京・新橋にあるパナソニック電工汐留ミュージアムで開催中の

「ユビュ 知られざるルオーの素顔」展のことであります。


「ユビュ 知られざるルオーの素顔」展@パナソニック電工汐留ミュージアム


そもそも「ユビュ」とは何ぞや?でありますけれど、
フランスの劇作家アルフレッド・ジャリが書いた戯曲「ユビュ王」に登場する人物の名前なのですね。


この「ユビュ王」なる芝居は1896年に上演されたものの、

当時の演劇は高尚な文化を享受する場であったわけですが、
ジャリは劇中、ユビュ王に「くそったれ!!」とかいう台詞を吐かせて平然としていたそうです。

劇場に集まった紳士淑女は非難ごうごうながら、一部その不条理性を評価する向きがあったとか。


その評価する側の一人であったのでしょう、

画商で著作家でもあったアンブロワーズ・ヴォラールが後に「ユビュ王」の続編を書いたのが、
題して「ユビュおやじの再生」というもの。


さて、ヴォラールとしては「ユビュおやじの再生」を出版するにあたり、

どうしても挿絵が欲しかったわけでして、画商としてセザンヌ、ゴーギャン、ピカソなどなどとも関わりが

あったというような人物だっただけに、依頼する画家には事欠かなかったでしょうけれど、

どうもお眼鏡に適ったのがルオーだったようです。


1917年にヴォラールと独占契約を結んではいたものの、

ルオーは「ユビュおやじ」の風刺に溢れた滑稽な世界には当初違和感を感じたようで、

引き受けるにあたっては自分が精魂込めて制作している版画集「ミセレーレ」の出版を

交換条件にしたといいます。


文字通り人間の極限を抉り出さんとしたかのような「ミセレーレ」と並行して制作するには、
あまりにタイプが違う「ユビュおやじ」に苦労させられているようすがヴォラール宛の書簡から偲ばれます。

約100のユビュのデッサンのため、私は倍以上の大判の紙を費やしてしまったのです。つまり、200のデッサンのうち、100が失敗だったということです。それほど苦心しています。
(1917年9月1日付 ヴォラール宛書簡)

そうは言いつつも手がけてみれば、「ミセレーレ」と対極にある「ユビュ」だけに、

あちらに詰まるとこちらを取り出し…といった具合に、
それぞれを気分転換にしながら並行して進められたようではあります。


また、ヴォラールがレユニオン島の出身であったからか、

「ユビュおやじ」の舞台は黒人住民の多い植民地となっていて、
これのヒントを得るために、ルオーは当時流行りの黒人レビューにずいぶんと通い詰め、
気付けば「ルオーの黒人ほど、黒人な黒人はいない」と評されるようにもなるんですね。


「二人の裸婦」(本展フライヤーより)


確かにルオーと聞いて真っ先に思い浮かべるタッチとは全く異なって、
黒の太線をうねるように流し、黒人のしなやかな肉体と躍動を表現していたりもします。

ルオーは、1918年に友人宛の手紙でこんなことを言っています。

墨絵用の筆で私は限りない自由を獲得したのです!これは大したことなのです!

前年、ヴォラールに宛てた苦闘の状況を語る手紙とはずいぶんと違う印象ですよね。
取り組んでいくほどに、「ユビュおやじの再生」はルオー自身にも思わぬ恩恵を授けたのかもしれません。


そうはいっても、版画集の出版は1932年。
取り掛かって以来15年ほどの年月が過ぎてしまったことは、大変な苦労が想像されるのですね。

展覧会では、下絵やいくつかのヴァリアント、

その後描いたという油絵など同じテーマがいく種類も手掛けられた様子が分かります。


「馬に乗るユビュおやじ」(本展フライヤーより) 「ユビュおっかあ」(本展フライヤーより)


見た目のとぼけた感じも含めて、展覧会タイトルどおりに「知られざるルオーの素顔」でありましょうし、
(なんでもルオー自身はもちろん、ルオーの子供たちもずいぶん賑やかでお茶目な?家族だったとか)
また本展の展示作が、ルオー財団秘蔵のものであったり、

ルオー財団を通じて特に借り受けた個人蔵の作品が多いだけに、
やはり「知られざるルオー」を見ることができる機会ということでもありましょうね。


この企画とは別に、最後の最後のところでルオー作品の新規所蔵品の展示がありますが、
こっちを見ると「ああ、やっぱりルオーだ」と思ってしまうところではありましたけれど。


「キリスト」(本展フライヤーより)