以前TVだかでやっていたのですけれど、
富士という山は関東一円はもとより三重県の方からも海越しに望めるんだそうですね。
もちろん晴天で空気が澄んでいて…という条件も厳しくなるんでしょうけれど。
それほどまでに遠く離れなければ、
けっこういろんなところで「富士見」という地名を見つけることができますね。
近所にもあって、案内板が立っています。
といったものの、ここで取り上げたいのは、その本物の富士山ではないんですね。
では、羊蹄山を蝦夷富士といったり、岩木山を津軽富士とかいったりするもの?
いいえ、違います。でも、惜しい(何も自問自答することはありませんでした…)。
しばらく前に朝日新聞のコラムに山田五郎さんも書いていた「富士塚」の話です。
以前、國學院大学の資料館
に立ち寄ったおり、
近くに渋谷区の郷土博物館というものもあったのですね。
その郷土博物館でやっていた特別展というのが「渋谷の富士講」というものでありました。
お伊勢参りならぬ富士山参り、何しろ霊峰不二ですからね。
これが江戸期に大変な賑わいを見せたそうなんですけれど、
例えば足の弱いお年寄りなどは富士に詣でたくとも体がついていかないということもあるわけでして、
そんな方々のために作られたのがミニチュアの富士山、つまり富士塚というものだそうなのですよ。
これに登って、富士山に詣でたかわりとするという。
山田さんが出向かれたのは東京・千駄ヶ谷の鳩森八幡神社にある富士塚で、
なんでも寛政元年(1789年)に作られた都内最古のものだということです。
でもって、その渋谷区郷土博物館の特別展を見たときに「まさか?!」と思ったんですが、
その富士塚の一つが幼き時代を過ごしたすぐそばにあるとの記載があって、
「ほんとかよ、そんなのあったら、絶対こどもんときに登ってるよ」と思ったんですね。
で、いよいよ折を見つけて行ってきました、その富士塚へ。
東京メトロ東西線の南砂町駅から徒歩10分くらいでしょうか。
元の住まいとかつて通った小学校(なんか今は暫時移転してるみたいですが)の近くだけれど、
学区域からはわずかに外れたところに富賀岡八幡宮はありました。
深川と称した方が分かりやすい、同じく東京メトロ東西線の門前仲町駅近くに
富岡八幡宮という立派な神社がありますけれど、
なんでもそこに大きなものが出来る前は、こちらが本家本元だったということで、
近くのバス停が「元八幡(もとはちまん)」と言われている理由がようやくわかりました。
立派なのは移っちゃってますから、見たところそこらにある小さい神社なわけですが、
おそるおそる社殿の裏手に廻ってみると、おおお!まさくわっ、こんなところにぃ!!
思ったよりも格段に大きな富士塚が、本当にありました。知らなかった…。
ここにもいわれの書かれた案内板がありましたので、読んでみるとしましょう。
富賀岡八幡宮の富士塚は、江戸時代末の天保四年(1833年)までに、富士講のひとつ山吉講によって作られた富士塚です。
江戸時代後半に爆発的に広まり、「江戸八百八講」と称された富士講は、信仰の対象であった富士山のうつしを住居の近くに築きました。富士塚に登ることによって、本山に登山するのと同じ功徳が得られるものと考えたのです。砂町の富士塚には頂上に向う登山口として、正面(西)に吉田口を、背面(東)に大宮口を、右側面(北)に須走口を作っています。現在では途中までしか行けませんが、中腹を真横に周回できるように中道巡りの道が作られています。右(北)には宝永山を表す小さい高まりを作り、塚の左裾には胎内と呼ぶ横穴を作っています。頂上に上り、富士山の方角を拝すると浅間嶽大日如来碑と対面するようになっています。
塚はもともと三○mほど北にありました。当初は土山だったようですが、昭和八年(1933年)水害のため形が崩れたので表面を溶岩(伊豆黒ボク石)で固め、昭和三七年(1962年)現在地に移築されました。塚に附随している数多くの富士講碑により、現代まで続く富士講の活発な活動をうかがうことができます。
たくさんの碑があることが富士講の活発さの証しということでしょうけれど、
なぜか戦時中の砲弾らしきものもおいてあることも時代の流れを感じます。
今や、というよりもう何十年か前に比較的近所にいながらも存在すら知らなかった富士塚。
社殿の裏にひっそりとその威容を残しているものの、
境内では動物を模した遊具ほどにも顧みられていないのかも…。
ところで、こうした富士塚は東京を中心に関東一円でおよそ300近くもあるといわれているようです。
もしかしたら、思いもかけぬほど身近なところに「おらが村の富士山」があるかもしれませんよ。

