小説「額田女王」 を読んだときに、
そういえば白村江(はくすきのえ)の戦いというのが日本史に出てきたよなぁ…と思い出したわけです。


当時の日本は未だ国としての安定もままならない状況であったように思われますし、
(日本という言い方も、天皇という呼び方も天武天皇の頃にできたらしく、

 それまでは倭国であり、大王であったらしい)
遣隋使や遣唐使を通じて、大陸の文化・制度の吸収に力を尽くしていたような状況でしたでしょう。


ところが、小説の中にも出てきたのですけれれど、
倭国の方が百済や新羅から朝貢を受けているというのが解しかねるばかりか、

百済からの懇請に基づいて朝鮮半島の戦いに倭国から出張っていくという状況が

どうにもピンと来なかったものですから、講談社現代新書の「白村江」を参考に、
このあたりの事情を探って?みたのでありました。


白村江 (講談社現代新書)/遠山 美都男


白村江の戦いは西暦の663年にあったのですが、

その当時日本の国内はまだまだ安定してないといいましたけれど、
朝鮮半島の方も大きく、高句麗、新羅、百済の三国に分割されていたものの、

いずれもつねに国境争いをしているような状態。


さらには半島南端の一帯には、伽耶地域という小国の分立する地域が残っており、

東の新羅、西の百済それぞれが争奪戦を繰り返していたのだといいます。
しかもそれだけでなく、海を隔てた倭国までがこの地域に触手を伸ばしていたというから、

さあ大変という具合でしょうか。


それにしても国のまとまりだってまだなのに、

何だって倭国はわざわざ海の向こうに手出しをするのかが気になるところですが、
この部分を勝手に想像するに、国のまとまりがまだだからこそだったのかなと思えてきたりするのですね。


大和朝廷のもとに中央集権国家(らしきもの)を築き上げようとする過程では、

畿内から外側へ向けてしきりに遠征して、素直に朝廷に恭順すればよし、

さもなくば力でねじ伏せて!ということが行われていたわけですね。
小説「額田女王」の中でも、東北地方(北海道もかな…)あたりの蝦夷を相手に

遠征していたようすが書かれています。


つまり近いところから順々に

決定的な支配者がいないところを取り込んでいっていたということになりましょうか。


これは必ずしも陸続きのところばかりでないのは、

壱岐や対馬を領土としていったことから想像できますが、
対馬の北はもう朝鮮半島なわけですね。


ですから、半島南端あたりの伽耶地域の小国には

倭国の(領土とまでいわずとも)権益を求めて出張ったとしても不思議はないのかもしれません。
今のように「国」の範囲を予め分かった上で考えると「何で?」になるものの、

その当時は少しづつ進んでいった先でしかなかったのかもです。


ただ、その先にはいきなり喧嘩を吹っかけることが憚られる

国らしい体裁を持つ百済なり、新羅なりといった存在があった。
だから、さらにどんどん攻め上ってはしないまでも、

両国に対して「伽耶地域には日本の権益も認めろよな」ということだけは念押しするわけですね。


日本史的にはこの地域のことがおそらく任那(みまな)でありましょうし、
その権益というのが「任那の調(みつき)」と呼ばれたショバ代の貢納させることではなかったかと。


おそらくは百済も新羅も「海の向こうから、うっせえな!」と思ったことでしょうけれど、
百済も新羅もそれぞれに、高句麗を含めた国境争いに明け暮れていますから、

ここは一つ倭国を懐柔するためにも朝貢しとくかという思惑でしょう。


百済も新羅もと言いましたけれど、倭国としては任那の調さえ入ればいいわけで、
国境争いのあげく伽耶地域が百済領の時期には百済から、

新羅領になると新羅からショバ代を取っていたそうな。
分別があると言っていいのかどうか。


ともあれ、そんなような状況にあった中で、

新羅が唐に臣下の礼を取ることによって、唐の軍隊を引き出すことに成功するんですね。
唐にとっては高句麗が天敵と言える存在だったのですが、

新羅が百済をやっつけることに手を貸してくれれば、
後に北から唐が、南からは新羅が高句麗を挟撃しましょうと耳打ちしたらしい。


慌てたものの百済は一気に滅亡の憂き目にあいますが、

国土回復を目指す残党が、倭国に対して任那の調を確約するために送っていた人質(王族)の返還と

出兵要請をするわけです。


唐を敵に回すことを考えれば即座には応じかねるものの、結局倭国は派兵を決意するのですね。

これは、島国たればこそなのかもしれませんけれど、先に触れたように各地に遠征するにあたっても、
船(つまりは海軍力)は欠かせないわけで、この点に一定の自負があったのかもしれません。
実際、白村江の戦いでは唐船百七十艘余、倭船四百艘余であったという説があるようです。
結果的には負けちゃうんですけどね。


その後は長い紆余曲折を端折ると、

後に高句麗は倒され、唐としては思惑違いながら、半島は新羅が統一することになりますね。
こうした後続の戦いが朝鮮半島では続いていた結果、

倭国が危ぶんだように唐・新羅軍が攻め寄せることはありませんでした。


もっとも沿岸に城を築いたり、防人を置いたりと防備に努めたという説のほかに、

これはむしろ示威行動だという説もあるそうな。
つまり、いまだ武威のあるところを見せておけば、こっちにまで手出しはすまいと踏んだのかもですね。


そんなこんなで、結局唐と直接に渡り合ったのはたったの2日。
しかも、相手が勝ってることで、あんまり後腐れがなかったのでしょうか、
相も変わらず遣唐使を派遣したり、使節を迎えたりと双方がやっているという。


しかしまあ、なかなかに大きな話ですよね、ここら一連の話は。
中高の授業以来、日本史をなおざりにしてきた者にとっては、

この辺のダイナミクスに「ほぉ~!」と思ったりするのでありました。