映画の予告編に釣られて行くと「おおはずれ~!」に出くわすことがありますけれど、
この「シャーロック・ホームズ」に関しては、実は全く反対の印象でありました。
予告編で(わざわざ)選び抜かれたシーンというのが、
ホームズ像としては「なに?!」というものばかりで凝縮されていましたので、
見に行くことさえ控えられたというのが本音なのですね。
ですから、誘われるままに出かけてみたものの、
始まる前からネガティブな予定稿が頭の中で渦巻いている状態だったわけです。
ところがところが、見てみると印象はがらり。
そして、先入観に繋がった第一印象の悪さは全て予告編によるものと理解したような次第。
ただ、それでもこれまでに一般的であったシャーロック・ホームズらしさは裏切りまくるでしょうけれど。
そうはいっても、これまでの「らしさ」というのがそもそも原典にどれほどあるものなのか、
例えば出版にあたっての挿絵などから得られるイメージが
ホームズ像を作り上げるのにかなり寄与してしまってはいないだろうか、
この辺りは微妙な点もあるのではないかと思ったりもします。
名探偵のカリスマ性やストイックさなどがホームズについてまわるところではありますが、
仕事一途(というより仕事中毒)であれば、
仕事が無い時のぼろぼろさ加減には目を覆わんばかりの状態があったかもしれませんし、
とかく知性派に捉えられはするものの確かボクシングをやっていたことなんかからすれば、
ストリート・ファイトまがいの賭け試合に乱入していたかもしれません。
要するに解釈の問題ですね。
おそらく制作者の側としては、
解釈の問題云々以上に自由な発想で作ってみたというのが本音でしょうけれど、
一定のイメージを持っている鑑賞者の側としてみれば、
解釈の問題として整理しとかないと落ち着きが悪い…。
まあ、そのくらいズレがあるんではないですかね。
シェイクスピアのリア王が戦国武将に置き換えられたり、
「から騒ぎ」が鹿鳴館時代の日本になっていたり(これは文学座の公演でした)するような、
またオペラの新演出の斬新さをみるようなものと受け止めれば、
受け止められないではないでしょう、たぶん。
それらとの決定的な違いは、今回の映画脚本がオリジナルなものであって、
「ボヘミアの醜聞」や「赤毛連盟」を脚色したものではありませんから、
それなら何もホームズとワトソンでない、新たなキャラクターを創造した方が良かったのでは?
と言えないこともないですけれど。
とまれ、予想に反して(?)見られる映画(失礼!)でしたので、
シャーロック・ホームズのがらがらぽんを心起きなくお楽しみいただけよう
敢えてあまりストーリーには触れずにおきました。
あっそうそう、それにしてもアイリーン・アドラーはあんなに峰不二子みたいだったかなぁ…。
