地下鉄東西線を竹橋で降り、お濠端から丸紅 の角を曲がると、徳川家邸跡の碑がある。十五代将軍慶喜の一橋家とはここに由来するものであろう。目の前には、今では首都高速が覆いかぶさって、日本橋同様に憐れな姿となった一ツ橋が架かる。大正期に架けられた橋が今でも車人の往来を支えているとは、健気なものだ。


 橋を越えた先の交差点を渡ると、左手には如水会館が見える。ものを知らぬ頃は、黒田如水とどうした関係があるものやらと訝っていたものだが、知ってしまえばなんと言うことはない。如水会館は一橋大学の同窓会である如水会の持ち物だ。名前は「荘子」から渋沢栄一がもってきたものらしい。それにしても、一橋大学とは関東大震災で灰燼に帰した都心を離れ、敷地を東京西郊の国立に移してからの名前であって、一ツ橋にある頃は東京商科大学であったはずだが、移転をして後に以前の所在地を大学名にするとは、妙なものだ。もっとも、移った先が国立(くにたち)とあっては、国立国立大学(こくりつくにたちだいがく)とも言いようがなかったのだろう。


 さらにもう一つ先の交差点を過ぎれば、赤煉瓦に歴史を刻んだ学士会館にたどり着く。名称をそのままに受け止めると、「学士のための施設」ということになろうから、学士たる内実が伴っているかどうかに関わらず、要件を満たして大学を卒業してさえいれば堂々たる「学士」というわけで、大手を振って利用ができるかに思えてしまう。しかしながら、その門構えは一介の学士にとって、いささかどころか、相当に敷居の高い趣きを醸しているのも否めないところなのである。実際、ここで言う「学士」とは大正七年(1918年)に公布された「大学令」以前、七つの帝大卒業生だけに認められていたものだそうだ。だとすれば、その意味での学士が集う場所となれば幽霊屋敷になってしまうところだが、これに準ずる形で先の旧帝大を受け継いだ大学の教員や大学院修了者が現在の会員ということらしい。「学歴」はこんなところで見事に生きていたのか…と妙な感慨に浸ってしまった。


 ところで、学士会館の南側と北側にそれぞれ碑が立っている。南側のものには「東京大学発祥の地」とある。てっきり昌平坂学問所あたりから始まるのかと思っていたが、そうした江戸から続くさまざまな分野の教育施設が明治にくっついたり離れたりを繰り返したあと、明治十年(1877年)に「東京大学」として統合されたということだ。しかし、東京大学で始まったものが、後には東京帝国大学になり、戦後再び東京大学に戻るというのだから、なかなか面倒なものではないか。


 こちらの碑そのものは簡素なものであるが、北側に回ればいささか仰天することになる。地面からにょっきり、巨大な手が生えたるがごとし。碑文に曰く「日本野球発祥の地」とはまた、何とも唐突な思いに駆られてしまう。この一ツ橋の地には、東大の前身のひとつである開成学校があったそうだが、お雇い外人のアメリカ人教師が課業の傍ら、生徒に野球を教えたという。これが本邦での野球事始め、その後世界的なスポーツとなった野球だけに、碑では巨大な手が地球にも擬えた球をしっかと握っている形となったそうだ。


 学士会館の、白山通りを挟んだ向かいには共立女子大があり…

どこかの案内本からの抜書きみたいに始めてしまいましたけれど、

道なりに進むごとに話をしていくと切りがなくなりますので、ここらでとめておくとしましょう。

たまたま会合で学士会館に行ったときに、「そういえば…」と思ったことをつらつら書いたまで。


でも、こういう街角それぞれの歴史って、どこにでもあるんだろうなぁと思うと、

またこれも(結果としてですが)シリーズものになってしまいそうですねえ。

ですから、早速【一ツ橋編】と銘打ってしまいました。

ま、てきとーにお付き合いください。


そうそう、ちなみに「日本野球発祥の地」碑はこんなのです。


日本野球発祥の地」碑