「彼の成し遂げたことは、ついに神話となった」というときの「神話」と
「彼の成し遂げたことは、神話にすぎない」というときの「神話」とでは
ずいぶんとニュアンスに違いがありますよね。
クラシック音楽における指揮者の役割を論じた「巨匠神話」という本を読んだのですけれど、
一見したところでは前者の(肯定的な)意味合いかと思っていましたら、
実は後者(否定的)と受けとめるべきものであったように思うのでした。
専門職としての「指揮者」という役割が誕生してからの、
まあ作曲家の余技を除けば、ハンス・フォン・ビューローあたりからということになりますけれど、
有名どころの指揮者の次々と取り上げて、まさにオンパレードの様相なわけですが、
それぞれの特質として褒められるべきところも紹介される一方で、
マイナス面(例えば性格的なものであったり、性的嗜好の点であったり)が挙げられていない人は
ほとんどいないという内容だったのですね。
(そうした点に言及がなかったのは、カルロ・マリア・ジュリーニくらいだったでしょうか)
肯定的な「神話」が出来上がっていたすれば、
その神話の虚飾を剥ぐといった意味合いもあるのかもしれませんけれど、
人間的な、あまりに人間的な点(性格的な弱さとか)を目の前に
「ほれ!ほんとはこんな奴だ」と放られるといささか辟易してしまうところではありました。
そうした点はあるものの、本書が本来的に示そうとしているのは、
指揮者という役割が本来の役割を離れた「権力の追求」を目指す本人と
それを商業的関わりから取り巻く人たちの姿であり、
そうした中で、指揮者という役割の現在的意味の再確認ということになるのかなと思うわけです。
今の一般的な理解では、
指揮者がオーケストラを統率している、力関係としては指揮者に分があると思うわけですけれど、
ミュンヘンでホルン奏者をしていたリヒャルト・シュトラウスの父親はこんなことを言っています。
新しい人がオーケストラに向かうと、私たちは、彼が指揮台へどう歩き、スコアをどんなふうに開けるかで、指揮棒に触れる前に、すでに、彼がマスターなのか、私たちがマスターなのかがわかってしまう。
これは、暗黙の了解的には今でも言えることかもしれませんけれど、
指揮者という役割が確立途上であるときには、
このひと言の持っている意味合いは今以上でありましょうね。
オケ側からすれば、皆それぞれに一廉の楽器奏者であって、
音楽性などにも自負がある人たちなのですから、
そこへ何の楽器も演奏しない音楽家(?)が出てきて権力を振るうからには、
簡単にいえば「オーラ」のようなものでもないかぎりはオケが素直に従うはずもないんでしょう、きっと。
指揮者の役割の確立過程は、
ちょうど楽曲の複雑さ(大編成であったり、変拍子であったり)が増してきたような頃合いでもあり、
奏者たちは自分のパートに専念する一方、全体を掌握して、楽曲としての全体像を的確に示す役割に
必要性があったころでもありますね。
また、一方ではオケとしての上手さはもちろん、まとまりの向上、質の向上を図るという
オーケストラ・ビルダーの役割も求められたわけですね。
この点では、オケのカラーの一部ないしほとんど全部が
指揮者のカラーとして受けとめられるようなことにも繋がり、
指揮者自身の人気、指揮者単体の商業性が際立っていくことなります。
自ずと人気の高い指揮者は、あっちでもこっちでも引っぱりだこになるわけで、
ベルリン、ウィーン、ミラノ、パリとあちこちを仕切った一時期のカラヤンみたいなことになってしまう。
ただこうなりますと、A市の常任指揮者、B市の音楽監督といっても、
ちっともA市にもB市にいないじゃないか!という状況が起こっても不思議でないですね。
何せ、忙しいんですから。
オーケストラ・ビルディングなんてしてられないどころか、客演指揮者との違いはどこ?てな感じ。
マーラーはウィーン歌劇場での十年で、648回振ったと言います。一年では64、5回ですかね。
カラヤンはウィーンの6シーズンで168回ですから、一年あたり28回だそうですが、
今ではもっと少なくなっているかもしれませんね。
ところで、クラシック音楽は必ずしも複雑な構成の曲ばかりではありませんから、
「たまにやってきて、あれこれうるさい指揮者なんか居なくっても、素晴らしい音楽はできるわい」
とばかり指揮者不在をむしろメリットとするアンサンブル(オルフェウス室内管のような)も現われてくるわけですね。
そうした流れに相俟って、いわゆる(人気モノではあるものの)巨匠不在の時代になってくると、
指揮者とはまた違う方向に商業性の優先が流れ、結果、それが音楽を左右することにもなっていくといったことをチョン・ミョンフンとバスティーユ・オペラの関係から言及してもいます。
最後に訳者あとがきに触れておきましょう。
指揮者たちはギリシャの神々のように、ねたみ、争い、妨害し、復讐もした。これまで個々ばらばらにしか知ることのなかった指揮者同士の関係やつながりが、興味深い人間模様とともにはじめてのみこめた。著者は、こうした神話を解体しながら、巨匠たちのたそがれを描いていく。物語の最後に、新しい神の出現を暗示し、結局この本は、指揮という芸術の、歴史というより、死亡記事になってしまったと結ぶのだが、それはお読みいただいてのお楽しみとしよう。
本書の日本語版副題は「だれがカラヤンを帝王にしたのか」であるものの、
これは必ずしも適当とはいえないですね。
カラヤンの名前を出すと売れると思ったとすれば、
本書で描かれた商業主義とさして代わりがない。
本来の副題は「Great conductors in pursuit of power」でそのとおりではありますけれど、
はっきり言ってしまえば、あとがきにあるように「神々の黄昏」に尽きるのではないかと。
それにしても、興味深くはあるものの、読後感のあまりよろしくない一冊ではありました…。
