ちらりと四度目のサイパンに行くことは書きましたけれど
、
いままでどおりであれば、おそらく寒い冬の日本をおさらばして、
ぬくぬくの南の島でのんびり泳いで、食べて、本を読んで…
という感覚でしかなかったものと思うのですね。
先月ウィーンに行って、旅してる間にもあれこれ考えて、
「オーストリア帝国なるもの」に思いを致し
、またそれからの連想で
昭和天皇記念館
にも足を運んだりしたからこそ手に取った一冊ということになりましょうか。
タイトルは「日本領サイパン島の一万日」です。
現在のサイパンは、北マリアナ連邦という米国統治下の自治領ということになっていますけれど、
それ以前は日本の領土だった(と、日本では言っていた)わけですね。
第一次世界大戦の折に、日英同盟を結んでいた日本では、
当時ドイツ領であったサイパン島を含む南洋諸島を占拠します。
戦後には、戦勝国となったイギリスを含む連合国側の側面援助をしたわけですから、
新しくできた国際連盟によって、南洋諸島は日本の委託統治に委ねられます。
この段階では、日本はおおっぴらに「領土化」することはできませんでしたけれど、
1933年に日独伊三国同盟ができ、国際連盟を脱退すると、
そのまま南洋諸島を領土化、軍事拠点化していきます。
これが、1945年の太平洋戦争の終結まで続くわけですね。
この間、大陸の満州よりは規模は小さいながらも、南洋開拓のための移民が募られ、
各地の寒村からもサトウキビ栽培等に従事する移民が渡っていきます。
概算のようですが、サイパンの人口表とやら見てみますと、
第一次世界大戦終了する1917年時点で、サイパンに居住する日本人は119名であったそうですが、
これが信託統治領となって以降、1920年には1,690名、1925年には5,448名、1930年に10,315名と増え続け、
太平洋戦争中の1943年には29,348名であったという記録が残されています。
(本来の現地人は一貫しておよそ3~4千名)
もともとドイツ領であったといいましたけれど、遡れば大航海時代にスペイン領であったものが、
何の開発をやってもうまく行かず、根付いたのはキリスト教だけだものですから、
海外領土を欲しがっていたドイツに二束三文で売り払ってしまったといいます。
結局、ドイツの手に渡っても特段の開発もなく、流刑地されたそうですから、
サイパン発展の突破口としてサトウキビ栽培による製糖業を持ち込んだ日本人には、
いささかの評価があると思ったらよいのでしょうか。
今でも、観光地のひとつにシュガー・キング・パークというのがあって、
製糖業を一手に仕切っていた南洋興発株式会社の社長・松江春次の像が
(壊されることもなく)立っているのですね。
もっとも、日本人と現地人の交流は草の根的に良好さを保っていた側面もありましょうけれど、
基本的には支配する側と支配される側という歴然とした差別があったようで、
これはかなり後までのサイパンの人たちの心に影を落とすことになったわけです。
そして結果的には、統計によっては沖縄戦をも上回る民間人の犠牲者を出したという米軍の掃討戦にあい、
島の形が変わったといわれるほどの徹底的な攻撃に、現地の人たちも晒されるのですね。
日本がやって来なければ…の思いはあったでしょうね、きっと。
今や、観光という平和産業によって立つサイパンには、
観光客は文字通りのドル箱ということになりましょうか。
ただ、金を落とす客だからといってなんでもありとは思えませんし、
逆に歴史にがんじがらめになることもまた、それは違うのではないかと。
過去の三度のサイパン行でも、
日本軍の最後の司令部跡(ラスト・コマンド・ポスト)や通称バンザイ・クリフにも行ったりしましたが、
「歴史を知っておく」ことの意味のようなものをさほどに感じてはいなかったように思うのですね。
その点では、気持ちの上では新規まき直しの旅になるのではないかと思ったりしているところです。
