東京・三鷹は太宰治が住んでいた場所がら、

生誕100年にあたってはあれこれイベントを行っていますね。
何でも、昨年の没後60年、今年の生誕100年、

そして来年の市制施行60年(これはこじ付けですよね)と3年にわたって
関連イベントを展開するんだそうです。


そんなこととは関係もなく、

山本有三記念館やら鴎外の墓も含めて三鷹文学散歩 としゃれてみたこともありますけれど、
思い出してみれば、確かに去年は三鷹市美術ギャラリーで太宰治展 をやっていましたし、
今年は今年でちょうど今、三鷹市芸術文化センター地下のアートスタジオで

生誕100年記念写真展 太宰治の肖像 」をやっているわけなのですね。


たまたまそっちの方に用事があるついでに(といっては、駅から遠いんですけれど)、
この写真展を見てきたのでありました。
ま、タダですから、それほど期待していたわけでもないんですけどね。


Chain reaction of curiosity



ところで、NHKの「知る楽」という番組で10月に太宰を語る4回シリーズが組まれていたことに

触れたことがありますが、その2回目に辛酸なめ子さんが登場して、こんなことを言っていたのですね。

…文学者風に顎に手をそえてポーズしてみたり、文学青年仲間との記念写真では差異をつけようとして、一人だけすねたような表情でななめ下に目線をやってみたり、自意識過剰気味ですが、たいていキマっているのが憎いです。満面の笑顔の写真はなく、物憂げな表情ばかりで、…徹底したイメージ管理を独力でやっている自己プロデュース力には驚嘆させられます。

とまあ、「そこまでのもんかぁ?」と思ったりもしますけれど、
太宰治の写真としてよく取り上げられるものは、

まあまあ「ポーズ、決まってんじゃん」というもののようには思われますね。


ところが、この写真展に出されたものは、そんな「ポーズが決まる」前後のものであったり、
ポートレート的にはいわば没写真であったりというものも含まれているんでしょうか。


日頃、太宰の写真に「むむむ、おぬし、やるな…隙が、ない…」みたいに思っていたとしてですね、
ここには「隙あり!太宰!!」とばかりに、

こちらが切り込める余地のようなものを見て取ることができて、

何やらほくそ笑んでしまうのですよ。


この「ほくそ笑む」という辺りが、また太宰読者らしさを放射しているようではありますけれど。

目に触れることの多い写真でもよく見れば、

「この人、なんてぼさぼさの髪なんだ!」と思えるところですが、
それが「不用意な」写真の場合、なおのこと。すごいもんです。


また、酒を飲んでいて、ふと目を上げたときのような酔眼朦朧としただらしのない顔。
これが女心に何らかを齎す触媒として作用するのなら、

もはやお手上げと言わざるを得ないですかね。


そうだとしたら、「隙あり!」と切りかかったものの、返り討ちにあったようなもので、
顔を歪めながら「な、ぜ、だ・・・」かなんか、切れ切れにつぶやきつつ、くず折れていくという。


一方の太宰はといえば、寂しそうな笑みを浮かべて、ふっとかひとつ吐息をついて、
「また、いらぬ殺生をしてしまった・・・しかし、なぜ、おれは死ねんのだ・・・」などと
ひとりごちつつ、去っていく…。

後には、ひゅうと一陣の風が渦巻いて、通り抜けていった…てな、ことですかねえ。


何が言いたいのか、もはや分からんことになってきましたね。