このあいだも「不思議の国のアリス 」には触れましたけれど、
NHKラジオの講座の2回目も面白かったのでもう一度「不思議の国のアリス」に登場願うことに。


「独創的なキャラクターと言葉遊び」というタイトルだったのですが、
アリスのお話に登場するユニークなキャラクターというのは、結構ひねりがきいたものであったようです。
その中には、「そんなの、楽屋落ちでないの」というものもあるのですけれどね。


例えば、そんな楽屋落ちの最たるものが、

アリスが自分の流した涙の大波に揺られているところに現れます。


登場するのはアヒルとドードー鳥とオウムと鷲のひなですけれど、
アヒル(Duck)は、この物語の原典となった思いつき語りを子供たちにした際に一緒にいた

ダックワースさんのこと。
お次のドードー鳥(Dodo)は、ルイス・キャロルの本名、ドジソンから。
なんでも、ドジソンさんはドモリ気味になることがあったらしく、

「ド、ド、ドジソンです」と名乗ることがあったとか。(どこまでがほんとなんだか・・・)
そして、オウム(Lory)は実在するアリスのお姉さんロリーナ、

鷲のひな(Eaglet)は妹の方のイーディスのこと。
お話を聞いてるみんなもちゃんと出てくるよとなれば、子供たちはさぞ喜んだことでしょう。


一方、いつもニヤニヤしているチェシャ猫は、

英語の慣用句「チェシャ猫のようにニヤニヤ笑う」からということですし、
いかれ帽子屋と三月ウサギもやはり慣用句「帽子屋のように変わっている」、

「三月のウサギのようにおかしい」から取られているといいます。
ここいらは英語によほど詳しくないと分からないことですよね。


さらに言葉遊びの方になると、

原文で読まない限りは全くわからないわけで(読んでもわからないかもですが)、
訳文の努力に当たってみるのがいいか、果敢に?原文にトライするかという選択に対して、
手に取ったのはまったく別。この際とばかりに、解説本に頼ってしまったのですね。


「なるほどねえ」と思えるところもある一方で、

なんだか真剣な勉強のように机に向かって読まないと・・・てなふうに思ってしまう本ではありました。

NHK生活人新書の一冊「アリスの論理~不思議の国の英語を読む」というものです。


アリスの論理―不思議の国の英語を読む (生活人新書)/宗宮 喜代子


ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは

オックスフォード大学の数学教員であったわけですが、どうやら論理学者であったということで、

「アリス」の物語はドジソンの論理学と分かちがたく結ばれていると本書の著者はいうのですよ。


「不思議の国」や「鏡の国」の住人たちの会話がちぐはぐで噛み合っていないのは、
「名詞は実体を持つ」という古典論理(それが変だと気付きながらも、ドジソンには解決できなかった)に忠実であったがためということのようなのです。


やたらに「首をはねよ!」と叫ぶ女王さまが登場しますけれど、
ニヤニヤふざけたチェシャ猫の首をはねるよう、家来に命じるものの、
困ってしまったのは、仰せつかった家来です。


例によって例の如く、チェシャ猫は胴体を消して頭(首から上)だけになってニヤニヤしているわけで、
家来にとっては胴体とくっついていないのに、首をはねられるわけがないということなのですね。


まごつく家来に対して「首があるなら、首ははねられるだろう」と王様までが言い出すしまつ。
どうやら古典論理の世界では、「名詞が実体を持つ」わけですから、
「首はあるのか、ないのか」に対してイエスの答えであるは「首なるもの」は存在する。
そして、女王の命は「首なるものをはねよ」ということで、胴体がついていようがいまいが関係ない。
ただ、現実には家来の動揺の方が当然なわけです。


そんな例をもうひとつ。
この道の先に誰か見えたら教えてくれと王様に頼まれたアリス。
「誰も見えません(I see nobody on the road.)」とアリスが答えたところ、
王様は「Nobody が見えるのか!」と、遠目がきくアリスの目に感嘆するのですね。
古典論理世界の住人である王様にとっては、「Nobody(=名詞)」は実体のあるものというわけです。


てなふうに言われると、「なるほどなぁ」と思うところではありますけれど、
でも、アリスの迷い込んだ世界はそれこそ不思議な世界であって、

ちぐはぐさ、ノンセンス感なども表面的な受けとめ方で楽しんでしまってもいいんじゃあないのかなぁ・・・

と、思ったりしたものでありました。