夜になると、彼らは夕食をとり、それから浜辺に出てパイプをふかすのだった。煙草の香りが魚たちにくちゃみを催させた。ロビンソン・クルーソーにとって、無人島の暮らしは楽しくはなかった。「ちょっとさびしすぎるな」と彼はいう。少年のフライディもおなじ意見だった。主人に向かってこういうのである。「そうです、旦那さま、無人島、ほんとにさびしすぎる」そして、その大きなまっ黒な頭を振ってうなずくのだった。

いきなりの引用は、「あらら、また無人島の話 ?」と思われるかもしれませんけれど、

実はこの文章を書いたのは、あの「ジムノペディ」の作曲家エリック・サティなのだそうで。


空想旅行でオンフルールをめぐる ということでもありましたので、

オンフルール生まれの、エリック・アルフレッド・レスリー・サティを少々探求してみたわけです。


「ひとりでいること」が、傍目はともかく本人にとってさびしいことであるかどうかは、

その人の性格なんかにも関わることでしょうけれど、

上の文章を書いたサティの場合は、露骨に周囲に対して「さびしい光線」を放射しつつも

近づく者と諍いを起こしてしまったり…てな具合だったようですね。

サティほど不幸な人間はなかった。

人の気に入られ、注意を引き、注目の的になりたいという強烈な欲望。もちろん「一番」になりたかったのである。ところが、ペラダンが、ドビュッシーが、あるいはピカソが、いつでも決まってスターの座を横取りしてしまうのである。それでもあらゆるジャンルを探求し、あらゆるスタイルを試みなかったわけではない。ただ、神秘主義からユーモアへ、古典主義から機能的・大衆的なジャンルへとやみくもに成功を追い求め、絶えず流行に追随して、方向転換を繰り返すたびに一からやり直したおかげで、彼の作品には少しもまとまりがないのである。

フランスの音楽評論家アンヌ・レエの言葉を借りるとこんなふうで、

いやはや不遇だなというか、かわいそうというか…

それが見た目には誤解されやすいとあっては、なおのことでしょう。


13歳で入学したパリ音楽院では、勉強大嫌いで最終的には逃げ出してしまい、

独自の考えに基づいた作品(ジムノペディやらグノシエンヌやら)を作りつつ

そこそこ有名になっていくのですけれど、

39歳にして一念発起、スコラ・カントルムで突如勉強をやり直そうとするのですよ。


これも例によってサティの奇行として片づけられてしまうところですけれど、

先の引用からすれば、「なるほど」と思わなくもない行動でしょうか。


ちなみに、このスコラ・カントルムで教鞭をとっていたアルベール・ルーセルは、

「彼は驚くほどよく音楽を知っていましたよ」と言っているそうです。

一方、ヴァンサン・ダンディはずいぶん手厳しくて、サティの課題に対してこんなことを言っています。

音の連結が不必要にぎくしゃくしている。物事を過大視するという奇癖に陥ってはならない。編曲には堅固さがない。

まあ、正統的な(アカデミックな、といいましょうか)音楽を教授する側にしてみたら、

そう思えたのかもしれないですね。

なにしろ、あのジョン・ケージでさえ(?)、こんなふうに言っているくらいですから。

サティの作品を年代順に並べてみると、隣り合った作品でも全く新たに出発したように思えるものがよくある。曲によっては、その違いがあまりにも大きく、同一の作曲家の作品だとは思えないほどだ。その反対に、時には、非常によく似た、ほとんど同じ曲のような作品もある。まるで画家が毎年開く展覧会のように。

さらに、反復構造の52小節の曲を840回繰り返すという、あの「ヴェクサシオン」には

「なせこんなことを考えるのだろう?」と言っていたりするわけです。

あのジョン・ケージが!偶然性の音楽を創造したケージがですよ。


良くも悪くも、サティを有名にした1917年5月18日、シャトレ座でのバレエ「パラード 」の初演。

4年ほど前のストラヴィンスキー「春の祭典」初演とも似た大騒ぎを巻き起こしたわけですけれど、

立体派的な背景画に張り付けられた登場人物たちが、

絵画における「パピエ・コレ 」の役割を演じるという演出を創案したピカソへの評価に対して、

サティの方は悪評ばかりが残ってしまったような…。


「パラード」のプログラムに一文を寄せたアポリネールが

そのなかで「シュルレアリスム」という言葉を初めて用いたという記念碑的な公演でもあったのですが、

すっかりピカソにいいとこを持って行かれた感のあるサティ。

どうにもこうにも、空回りの人生だったようですね。