小説「大菩薩峠」の作者中山介山は、月見草が好きだったそうで、
小説の中に幾度か登場させているだといいます。
そうしたものの中に、
「盲の法師が多摩川の岸で、月見草に囲まれて琵琶を奏でる」という場面があるそうなのですけれど、
これに対して、とある博士(?)が
明治維新前の多摩川のあたりには月見草が繁っていたということはないことを指摘して、
「世の識者が読めば失笑を禁じえまい」と言ったとか。
これに対して介山は、こう反論したそうです。
時としては大胆に、時としては謹慎に科学を超越することは、この種の小説に於いては
許されるべきものなり。
この間、川端康成の「雪国」を引いて話題にした「小説の普遍性」 にも関わって、
ズバッと言いきったひとことなのですね。
確かにその場面は多摩川を借景としてあるのでしょうけれど、小説世界においては
「そこに月見草がなくてはならん。あってこそ、豊かなイメージにつながるのであって、実際に多摩川に月見草があろうがなかろうが関係ない」と言うことなのかもしれません。
月見草と言えば、太宰治「富嶽百景」の「富士には月見草がよく似合ふ」も有名ですね。
でも、バスで通りかかった山道から月見草が見えたという挿話に対して、
妻の石原美知子は「月見草は昼、咲かないのではないかしら…」と言ったとか。
この御坂峠の文学碑にも刻まれた名文句にまつわって、
「咲いていないものを見た」ということになっていては具合が悪いと思えなくもないわけですが、
太宰にしてみれば、「ここでは月見草が見えるんだ!」ということになりましょうね。
そうでないと、否そうであればこそ、この文章のイメージの広がり、豊かな情感が出るのだと。
というわけで、見てきたようなウソ(?)も創作上の手段としてはあり!なのでしょう。
絵画の世界でも、アンリ・ルソーなどはまさに「見てきたような」絵を描いてますものね。
これはアンリ・ルソー最後の作と言われる「夢」ですけれど、
いかにも熱帯のジャングルを思わせる木々、花々で彩られています。
が、ルソーは熱帯のジャングルなどへは一度も行ったことがないのだということで、
植生的には(こういってはなんですが)結構めちゃくちゃだったりするようです。
「だから『夢』だと言っとるではないか!」とルソーが反論するわけではありませんし、
材料がどんなところに依拠していようと、
見る者のイメージ喚起力をこの上なく刺激する一枚になっているような気はするのですね。
かように、見てきたようなウソがありやなしや…ということでは、
仕上がったものが「見てきたようなウソ」を気にさせる程度のものか、
そんなことは超越しちゃっているのかという点にかかっているですね、どうやら。
かつて添乗をしていた頃に、
「添乗員、見てきたようなウソを言い」と自嘲気味に言っていたことがありますけれど、
ツアー客から聞かれて困る質問に、「添乗員さんは、ここ、何度めなんですか?」というものがあります。
添乗員にも、初めて来るところはたぁくさんあるわけでして、
正直に答えりゃそれでいいというものでもなさそうだし…困るなぁ。
