かのサマセット・モームが、こんなことを言っているのですね。


ページを繰っても何事も変化はしないのに、それでも先へ先へとページを繰るのが喜びである小説。

そして、こうも。


すばらしく面白く読める。もっと偉大で名声も高い小説家のあるものよりも面白く読める。

サマセット・モームが「世界十大小説家」の中に数え、これほどに褒め称えている作家、
それがジェーン・オースティンなのですよ。

空想の旅がイングランド南部に入ると 、そこはジェーン・オースティンの世界。
というわけで、初めてジェーン・オースティンの作品を読んでみました。
手に取ったのは、後期の長編「エマ」です。


この小説に対して、

というよりジェーン・オースティンの小説は基本的に同じ(煎じ詰めればお嬢様の結婚話)らしいので

オースティンの小説に対してといった方がいいかもしれませんが、

訳者の解説はこんなふうに言っています。


とにかく、そこでは、上流、中流、下流という社会階層の差別は、堅くてゆるぎないものであった。
すくなくとも、この小説を読むわれわれは、そのような差別感に腹を立てても、いまさらはじまらないと、さじを投げ出すほかないほどである。

そうはいっても、やはりそこには「小説としての普遍性」があることを指摘をしてもいるのですけれど。

ただ、冒頭のこの部分を読んだだけで、いやぁあな予感がしたものです。


エマ・ウッドハウスは、美しく、才気にとみ、裕福であって、あたたかな家庭と明るい気質とを持ち、
生活の最上の恵みのかずかずを身に集めているように見え、世に生をうけてかれこれ二十一年になるが、苦しみも悩みもほとんどなかったのである。

主人公であるヒロインのエマを紹介する長い一文。

そしてこれに続くのは、

だれそれさんがどこそこへ行って、だれそれさんと会ってどんな話をしたのかしらとか、
パーティーを開くのに、だれそれさんが来られないのでは延期しましょう。

でも、だれそれさんと同席するなんて許されませんわだとか・・・


おいおいおいおい!

こうしたご近所の話が、しかも訳者が言うとおり、階級差別感丸出しで続いていくわけです。

そんな中で、主人公のエマは「これでもか!」といわんばかりのお嬢様ぶりを発揮するのですね。


出自は詳らかでないものの、かわいらしい年下の少女ハリエットに対して

「この娘をなんとかしてやらなきゃ」と下流の上くらい青年からプロポーズを断らせ、

中流くらいの青年が「あなたに気があるようよ」とそそのかした挙句、

中流青年のお目当ては実はエマだったと。

そして、その青年に対しては「わたしにプロポーズなんて、とぉんでもない!」
とはねつけるのですよ。


少々誇張して書いておりますけれど、作者のオースティン自身が

「エマは、私以外は誰も好きになれない主人公だろう」といったことを言っているようです。


とはいうもの、先に引いたハリエットやその後に展開する自分自身の恋愛遊戯も、

すべてはお嬢さまの早とちり、思い込み、勘違いによる誤解ということが分かれば、

これはこれで面白みにもなろうというもの。

最初はモームに騙されたのではないかと思うほどページが進まない状況が続いたのですけれど、

半ばまでくると(慣れたのか)、それこそモームの言葉どおりになり、一気呵成に読んでしまいました。


しかしこうも日常的な(時代の異なる点で差別意識は別としても)ご近所話を

これだけ長く(ほんとに長い小説です)よく書けるなと思います。

そして、日常的なので、ああこんな人いるいる、あんな人もいるいるてな具合ですが、

それが小さな世界にぎゅっと詰まっている濃い状況は、むしろ日常に非ずというべきかとも。


そうした独特の世界に紡ぎだされる、いろいろな人の心の揺れ、機微を描いているのが

ジェーン・オースティンのジェーン・オースティンたるところなのでしょう。

重たく言えば、孤高の作家ということになりましょうかね。