「博士の愛した数式」が話題になっていた時期でしょうか、
数学に関連した話や本がいろいろ出ていたような。
パオロ・ジョルダーノの「素数たちの孤独」もタイトルから想像すると、
「数学本ぽさ」が醸されています。
まして作者がイタリアの物理学者とあっては・・・。
ところがこれは、それぞれに拭いきれない幼い頃の心の傷を抱えた男女の、
なんとも不器用な恋の物語なのでありました。
双子でありながら全く言葉を話すこともない妹を公園に置き去りしたために、
行方不明になってしまった妹に対する自責の念から自傷を繰り返すマッティア。
好きでもないスキーの練習を父親に無理強いされ、
雪山で転倒し片足が不自由になったことで父親をうらみ続ける拒食症のアリーチェ。
この二人の、とても高校生(ましてやイタリアであることを考えれば)とは思われないほどの
「淡さ」にはなんともむずむずさせられるものです。
もちろん、それぞれが持つ背景があるますから、
遅々たる展開に「淡さ」ばかりを感じるのは不適切なのでしょうけれど。
高校卒業後には別々の道をたどるマッティアとアリーチェではありますけれど、
いつも指先に見えない小さなとげが刺さったままであるかのように、
何かをしていれば忘れているけれど、ふとしたおりに「ああ、まだどっかにとげが残ってる」といった感覚で
お互いを意識しているのですね。
タイトルにある「素数」というのは、(2と3を除いてそれ以外の素数は)隣り合い連続して現れることがない、
決して寄り添って在ることがない・・・というところが来ているようです。
なかなかしゃれているではありませんか。
ところで、本書を紹介する書評の中に、こんなひと言がありました。
理系男は、どうしてこうも不器用なのか。
どれほどの信憑性があるのかは別として、血液型による性格分けに接すると
「そうそう、あるある」と思ってしまうようなところがありますけれど、
それと同様に(?)理系、文系のタイプ分けもまた、まことしやかに存在するような。
「あの人、やっぱ典型的理系よね」とか「おれ、思いっきり文系だからさ」とか。
理系男がどれほど不器用なのかは、個人的に云々できるところではありませんけれど、
不器用なのは文系男にもたくさんいるでしょうし、文系・理系に関わらず女性に関しても同様ではないかと。
ただ、理系の(学問を修めた)方々の中には、本書の作者のように文芸に秀でた人もいる反面、
文系側はどうにもこうにも「数字が苦手」というのが圧倒的なのではないかなと思うのですね。
こう考えると、理系タイプは比較的オールマイティに近いということになるのでしょうか。
しばらく前に人気のあった「プロジェクトX」のような番組を見ていても、
「男たちは・・・」といって語られるのは理系の人たちで、世の中の役に立つことをやっているわけです。
それに比べて、文系は・・・?
「数学できないから、文系しか行けない」
といったネガティヴ・チョイスの結果ばかりが文系ではないと思うわけでして、
「もっともっとがんばれ、文系!」という気持ちになったりしないでもありません。
とまあ、ずいぶんと小説から離れたことを書いていますけれど、
マッティアとアリーチェが過去の傷を薄皮を剥がすように少しずつ拭っていくように、
文系も「数字が苦手」というトラウマから離れていっていいんではないかなと思うのでありました。
