ロンドンのロイヤル・アカデミー で見たフリスの絵の中で、

さも訳知りに語っている人物がオスカー・ワイルドだったわけですけれど、
これも機会ですから、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」を読んでみました。


オスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」(新潮文庫)

ドリアン本人と肖像画の関係という物語の根幹であろうプロットを知っているだけに、
これまではあえて手に取ることのなかった作品ですが、
読んでみて「なるほど、こういうことだったんかいね」と思ったような次第です。


肖像画に描かれた自分の姿を見て、ドリアンはやがて年老いていくであろう自分の姿を思い、
むしろ自分自身は今のままで肖像画の方が年老いてくれれば・・・と願うわけですね。

ここで日本の映画「ハンサム★スーツ」を思い出してはちと突拍子も無いでしょうかね。


方や容姿に対する経年劣化に対する怖れですし、方や現状の容姿に対する不満であるわけですけれど、
容姿に対するこだわり、そして望む容姿(のまま)でありたいと願う点では同じようなものです。


そりゃ、見てくれが悪いよりは良い方がいいだろうと思わないではないですが、
ハンサム・スーツをまとってモデルになってちやほやされていく琢郎(ドランクドラゴン・塚地)には、
いくつになっても20代前半の姿かたちのドリアンが、社交界でちやほやされるようすがダブります。


もともと絶世の美青年(?)であるドリアンと、

過去101回もの告白が全て拒絶される琢郎とでは違いが多すぎますから、

あらゆる比較をするつもりはありませんけれど、
映画の中での「琢郎さんが琢郎さんのままで何がいけないんですか!」というひと言は、
そのままドリアンに対して「貴方が年齢を重ねていく貴方であって何がいけないんですか」

ということになりましょうか。


と、「ハンサム★スーツ」のことばかりになってますが、ドリアン・グレイの場合には

取り巻き(特にオスカー・ワイルドを思わせるふうのあるヘンリー卿)が

破滅に一役も二役も買っているところがありますね。


最終的に、琢郎が「永遠のハンサムな姿」を振って、本来の仲間たちの元に戻って行くのに対して、
ドリアンが肖像に向かって願う若気の至りに対して諭す仲間がいなかったことは、
それぞれの結末を導く大きな違いということではないかと。
もっとも、ドリアンの願いが叶ってしまうとは、

当の本人も含めて思いも寄らないことであったでしょうけれど・・・。