人はとかく易き方へと流れがちではないかなと思うのですね、自戒もこめて。
日常が「こんなもんだけんね」と思ってしまうと、

そのままずぅ~と同じように流れていってしまうのではないかと。


映画「扉をたたく人」

映画「扉をたたく人」の主人公ウォルター・ヴェイル(リチャード・ジェンキンス)は、

自分の日常を振り返ってこんなことを言います。

忙しくない。

ちっとも忙しくないんだ。

何年もまともな仕事はしていない。

何もかも、ふりだけ。

忙しいふり、働くふりで、

何もしていないんだ。

自分は「これだけの人なんだぁね」という気持ち。
楽ではあるけれど、決して楽しくはないようですよね。
同じ漢字を当てますが、「楽(らく)」と「楽しい」は必ずしも同じところにはないのですね。


「楽しい」が指し示すものは一様ではありませんけれど、
ウォルターの場合には「これだけの人なんだぁね」と思っていた自分にふと気が付いたときには、

改めて人生の、生きていることの楽しさを噛み締めたのではないでしょうか。
契機となったものの訪れ、そしてそれが訪れることによって直面した事柄は

「楽しさ」とは縁遠いものであったにしても。


映画ですから、変化の契機ははっきりしています。
原題である「The visitor」が示しているとおり、何かが訪れるのですから。
邦題の「扉をたたく人」というのも、

相当にイメージを膨らませる材料を持ったタイトルになっていると思いますけれど、

どうも「人」に限定される要素が強すぎるようですね。


契機が訪れるのは、必ずしも「人」を介してではない可能性もあるわけですし。

この映画でも音楽はやはり契機のひとつ。
物語上、ウォルターが取り組むジャンベ(アフリカン・ドラム)は

タリクという人を介して接することになるわけですが、
ジャンベが響かせるビートこそが、ある意味、平穏に収束してしまっているウォルターの日常のリズムに

変化をもたらしたようなところがありますから。


何らかの契機。
ほんのちょっとしたことも含めて。
これに気づくか、気づかないか。


人は易きに流れるとは言ったものの、

「こんなもんだけんね」と思ってしまえば本当に「こんなもん」で終わるのでしょうね。
それがいけないと訓示めいたことを垂れるわけではありません。
でも、こんなもんなのか、あんなもんなのか、どんなもんであっても、楽しくはありたいかなと。