描き方は全く違うし、人物造形もまた全く異なるものながら、
「私は貝になりたい」と思い出したりするのですね。
映画「愛を読むひと」です。
これまたちっとばかり時期遅れですけれど。
戦争という状況下で取り得た行動を、どれほど後から選択肢があったように考えられたとして、
「こういう選択肢があったのに、あなたはなぜそのような行動をとったのですか」
こうした質疑がそもそも成り立つのかどうか。
状況の説明には言い訳がましさが付きまとってしまい、
そもそも訴追する側は「んなこたあ聴いてない!」というふうに思うでしょうから、
何をどう言ったらよいのか…。
確かに別の選択肢を取りえた状況にあったとして、
その選択肢を取るということ自体に気付いていなかった場合にどれほど責めることができるんでしょうか。
もちろん、仕方が無かったものは仕方がないんだ・・・で終わってよいとは思わないですけれど。
物語の終盤、アウシュヴィッツから生還した方をアメリカに訪ねる場面がありますけれど、
その方がアウシュヴィッツで確かに死線を彷徨う悪夢を経験させられたことは紛れもない事実であって、
遡って無かったことになどできるものではないにせよ、
マンハッタンにあるビルの大きなフラットに暮らす様子を見て、
何かしらの違和感(適切な言葉がすぐには見つからないのですが)のようなものを感じたてしまいました。
戦争という、とにかく平静でいられるわけでない状況にあって、
ひとつの方向に向かざるを得ない状況で与えられた作業を行うことが「善」とされて疑う余裕もない、
思いも至らないときに「後から考えてできるはずであった選択肢を取らなかった」とされる一市民が
終身刑になっていることとの対比において・・・でしょうか。
「悪いことは悪い」と断ずるにやぶさかではないものの、
どこまでが戦争犯罪への加担であったのかは、
弱いものいじめやスケープゴート探しで片付けていいものではないのではないか・・・
そんなことを考えさせられるのでありました。
原作「朗読者」を読むと、またもう少し違った面にまで思いが至るのかもしれませんけれど、
映画では前半部分が冗長に思えるような気がするほどに、
後半の法廷シーン以降に注目してしまったのでありました。
教授のゼミでひとりの学生が言い放った「法は何て狭いものなんだ」というのが印象的です。
