空想の旅行でライプツィヒあたりを周遊 することになりましたから、

これを機会にヨハン・セバスチャン・バッハを探究しておきましょう。

なにしろライプツィヒは、晩年までの27年間も過ごした場所ですし…。


そんなふうに思って、バッハ探究を始めると、

「いやあ引っ越しの多い人だなあ」ということが分かってきました。

生まれたのは、1685年。ドイツ中部、テューリンゲン地方のアイゼナハです。


アイゼナハでは聖ゲオルク教会付属のラテン語学校で学んだということですが、

この学校の先輩というのが、かのマルティン・ルター。ま、時代が違いますけどね。

ここで聖歌隊に入り、礼拝のオルガンは父親の従兄、そして父親もヴァイオリンで参加という

音楽の環境には恵まれていた様子。


ところが、9歳のときに母親が、10歳のときに父親が亡くなったことから、

オールドルフで教会オルガニストしていた兄(14歳年長)のもとへお引越し。


1700年には北ドイツのリューネブルクへ。

15歳ですからまだ学生ということでもありますが、聖ミカエル教会合唱隊で給与が支給されるという

まあ奨学金で自活する生活の始まりというところでしょうか。


1703年には中部ドイツのワイマールに戻り、宮廷楽師を務めたあとほどなくして、

ワイマールの少々南に位置するアルンシュタットのオルガニストに採用されます。


オルガンの腕は大したものだったようですが、同僚と諍いを起こして、北ドイツのリューベックへ難逃れ。

ブクステフーデの技量に触発されて戻ったものの、どうにも居づらなって、就活に励んだのですね。


うまいこと、アイゼナハの北方ミュールハウゼンのオルガニストに着任したのが1707年。

ここでは初期カンタータの創作が始まり、結婚もしと、公私ともに順風満帆…。


ところが、翌1708年には辞表を提出、

ワイマールの宮廷オルガニストが空席となったのを見逃さないヨハン・セバスチャンでありました。

他の田舎町?と違い、ワイマールでは待遇もよく、やりたい音楽ができたのでしょうね、きっと。

1714年には宮廷楽師長に任命されます。


次は宮廷楽長と忠勤に励むもののかなわず、失意のところへケーテンの宮廷楽長の口が舞いこみます。

バッハは喜んだものの、ワイマール公は手放したくない。

いざこざで機嫌を損ねたワイマール公は、なんとバッハを牢屋に放り込んでしまったとか。

ひと月ほどの入牢にも意志をまげないバッハは、ようやくケーテン行きを認められました。


1717年、バッハはライプツィヒの北西にあるケーテンに到着。

ケーテン侯レオポルトの居城であった建物には、バッハのレリーフとともにこんな記載があるそうです。

ヨハン・セバスチャン・バッハは、1717年から23年にかけて、ここで不滅の芸術作品を創作した。祖国よ、彼を誇れ。しかしまた彼に値いするものであれ。

レリーフの言葉どおり、「ブランデンブルク協奏曲」などもここで生まれましたが、

これがケーテン候に捧げられるのでなく、ブランデンブルク辺境伯から就職口を得るための賄賂?

だったようでもありますね。

同じころ、ハンブルクの教会オルガニストの地位にも応募したりしているそうで、

ケーテンでの活動も潮時に来ていたということでしょうか。


基本的にバッハは、ついてますね。まあ、運も実力のうちでしょうけれど。

1723年、ライプツィヒの聖トーマス教会カントル(=ライプツィヒ市音楽監督)であったクーナウが亡くなり、

ライプツィヒ市としては、テレマンなどにも声をかけたが断られ、バッハにお鉢が回ってきたようです。


次点的に選ばれたバッハではありましたが、その後活躍は目覚ましく、

また職のためなら?とカトリックへの宗旨替えもいとわず(ルターの後輩でしたが…)、

ザクセンの宮廷作曲家にもなっていったのでありました。

ここで、「マタイ受難曲」や「ミサ曲ロ短調」が生まれたのですから、さもありなんですが。


と、バッハの労苦を偲んで、ゆっくり音楽を聴かせていただくとしましょうか。


バッハ:ミサ曲 ロ短調/カール・リヒター