英米の小説、特に肩の凝らずに楽しめるような作品の翻訳をたくさん手がけてこられた
永井淳さんが亡くなったと知りました。
特別な思い入れまではいかないものの、「巧い翻訳だったよなぁ」としみじみ思いだされるのですね。
ジェフリー・アーチャーの作品などは、ほとんどがこの方ではないかと。
今でこそ海外作品の翻訳は、複数の訳書が出ていたり、新訳が施されたりと
選びようがある反面、どれを手にするかで印象が変わってしまうということもありますね。
それでも、こういっては何ですが、「こりゃないんじゃないの?」という翻訳しかないという状況よりは
ずいぶんいいのかなと思ったりするわけです。
直訳調の言い回しや、だいたい日本語の文章としてこんなんでいいの?と思えるものに出くわした日には
小説作品そのものの良し悪しとは全く別に、ダメだししたくなってしまいますから。
もっとも、「そこまで言うなら、英語で読んだらどうよ!」という考え方もあるわけですが、
それはそれでなかなか。
と、自分ではやらないのに、他人のことに口出しする…
「おお、評論家チック!」と気が付いてしまいました。
「評論家」という言葉は、職業としてもちろんある一方で、
身近なところ、たとえば職場などではかなりネガティブな印象で使われことがありますね。
「あいつはよぉ、評論家だから仕方なねえよな」という具合。
ニュアンスはご理解いただけるものと思いますが、「口は出すが、何もしない」の意ですね。
かなり面倒くさい人たちです。
だからといって、職業としての評論家の方々を、この土俵で語っては「いけん」でしょうね、やっぱり。
何かのものごとに対して、客観的にモノを言う、専門知識の蓄積のもとに話をする…
こうしたことは、何かのものごとがより発展的とかより建設的とか、前向きに作用する場合に有効でしょう。
ですから、例えば「文芸春秋」みたいな雑誌に、論文を載せるというのは評論家のありうべき姿であって、
TV番組でああだこうだとコメントするのは言いっぱなしで、
ネガティブ評論家に近い(同じ?)に見えてきます。
ようするに、(肩書きが全てではないにせよ)素人が「口は出すが、何もしない」レベルですから。
では、素人は何も言ってはいけないんでしょうか。
それはまた違いますよね。
「言論の自由」なんつう大袈裟な話でなくって、あっていいことでしょう。
「岩波文庫や新潮文庫のふるぅい版は、読みにくいよなぁ」
「でも、最近の文庫は妙に活字が多くて、行間すかすかで厚くなってね?」
まあ、このくらいのことは言っても差支えないどころか、
意見として出版社に言ってやってもいいのかもしれませんね。
そうそう、「海外小説は、永井淳さんのような巧い翻訳者で、お願いしまっす!」ということも。