およそ見るかぎりにおいてキュビスムの影響とは?と思えるマリー・ローランサン の絵ですけれど、

アカデミー・アンベールで絵の勉強を始めた頃に知り合ったのが、ジョルジュ・ブラックだったそうです。

キュビスムと言えば、必ず出てくるブラックですが、とかくピカソの影に隠れてしまいがち。

やっぱり一度は探究しておかなくては…ですね。


ジョルジュ・ブラックは、1882年(なんだ、ローランサンのいっこ上でした)にアルジャントゥイユに生まれ、

港町ル・アーヴルで子供時代を過ごします。

つうことは、印象派の画家たちがキャンパスを外に持ち出して風景画を描いていたのなんかを

間近で見ていたかもしれないですね。

家業が建築塗装業で、父親も日曜画家だったとあれば、なおのことかも。


確かに、子供のころから絵の具の類には慣れ親しんだようですけれど、

もっぱら家業の後継ぎになることを考えていて、パリに出た当初も塗装屋さんの勉強のつもり。

本格的に画家を志すのは、あとからということなのでありました。


そうはいっても、ル・アーヴル以来の友人にはラウル・デュフィ がいて、

パリでも仲良くしていたようですし、画家へのレールは敷かれていたのかもしれません。


で、ブラックが画家を志して、まず目にとまったのは1905年のサロン・ドートンヌでのマティスとドラン。

ブラックは後年、こんなことを言っています。

フォーヴの絵は斬新で、私は感銘を覚えました。あれこそ私が必要としていたものだったのです。実に熱狂的な絵で、当時23歳の私にはあれこそが絵でした。

なるほど1906年頃のブラックの絵を見ると、後年のキュビスムの画風の印象が強いだけに、

「これ、誰の絵?フォーヴィスムの誰かだろうけれど…」という感じ。


一方、「自然を円筒形、球形、円錐形として扱いなさい」という言葉を残したセザンヌ の影響も大きく、

1907年に描いた「レスタックの陸橋」を見れば、一目瞭然というところでしょうか。


ジョルジュ・ブラック「レスタックの陸橋」

フォーヴからセザンヌ、そしてほどなくたどりつくキュビスムまでが見通せるようです。


ブラックがこの絵を描いた1907年、ピカソは有名な「アヴィニョンの娘たち」を描きます。

これを見て衝撃を受けたブラックは、ピカソに追随し、やがて二人でキュビスムを作り上げた…

というのが定説っぽいですけれど、ピカソがピカソなりにキュビスム的描法にたどりついたとほぼ同時に

ブラックはブラックでやがてキュビスムと呼ばれるものに到達しかかっていたという説もあります。


つまり、必ずしもピカソが一番、ブラック二番というのでなくして、二人が合わさって確立されたという。

もっとも、「アヴィニョンの娘たち」のショッキングさからして、ピカソが目立つのは当然ですけれどね。


こちらは、キュビスムの作品のひとつ「ろうそく立て」(1911年)です。


ジョルジュ・ブラック「ろうそく立て」

「キュビスムの絵は、いったい何が描いてあるんだか??」といったことは、ちょっと置いておいて、

かなり単純に「きれいだな」と思うのですけれど、いかがでしょう。

「きっと万華鏡で覗いてみると、こんなだよなぁ」って思うのですね。


ピカソの方は鋭角的で、さらにショッキングな人物像を生み出していきますが、

ブラックは静物画を取り上げることが多く、落ちついて見ていられるといいましょうか。


特に、ヴァイオリンやマンドリン、ギターなどを含めて、

なかり楽器が登場するケースが多いのは音楽好きの証拠かもですね。

実際、ル・アーヴル時代には、デュフィの兄弟からフルートを習っていたそうでし、

バトー・ラヴォワールでも友人たちにヴァイオリンを弾いてきかせたとか。


楽器を題材にすることは、その後パピエ・コレをはじめとするコラージュ の手法でも同様です。


ジョルジュ・ブラック

ここでかなり色彩は押さえられていますが、

やがて必ずしもキュビスムへのこだわりを見せない作品では、

フォーヴもかくやという色遣いに戻っていくのですね。


ピカソとは変わらぬ友人どうしであったにしても、つねに「キュビスムの2番手」ではあまりにかわいそう。

1963年に亡くなった時には、ルーヴル美術館の庭で国葬が営まれ、

ときの文化相アンドレー・マルローが弔辞を読んだそうです。

ランスの天使が大聖堂を棲み家とするように、ルーヴルこそ彼にふさわしい家なのです。

おそまきながらではありますけれど、ジョルジュ・ブラックの作品、

じっくりながめてみたいと思うのでありました。