机上の空想旅行でポーランド を巡ってみると、
どうしてもショパンゆかりの場所に立ち寄るのは必須と思えるわけですけれど、
ポーランドの作曲家は当然ショパン
だけであるはずはありませんよね。
では、誰が?
ファミリー・ネームが「何とかスキー」でなくって、
「何とかスキ」の場合にはおよそポーランド系だということ気が付くと、
ヴィエニャフスキ、シマノフスキ、ルトスワフスキ、ちょっと違うけどペンデレツキといったところが
浮かんでくるわけです。
そうそう余談ながら、ファースト・ネームの方では、
スタニスラフとか、ミロスラフとかいう「何とかスラフ」っていうのがよくありますけれど、
あれは「スラフ=slav」ですから、「おいらはスラブ系だけんね」と名前からして宣言しているのですね。
まあそれはともかく、
ショパン以外のポーランドの作曲家の作品もあんまり聴いたことがないなと思ったものですから、
早速トライしてみようかと、近くの図書館から調達してきたのが、このCD。
ヴィエニャフスキとシマノフスキのヴァイオリン協奏曲、いずれも第2番が収録された一枚です。
ヴァイオリン独奏がヘンリク・シェリングで、指揮はヤン・クレンツ。
どちらもポーランド出身ですから、ご当地ものみたいなCDです。
(オケだけは、ドイツのバンベルク響ですが・・・)
ヴィエニャフスキは1835年生まれですから、サン=サーンス
と同世代。
いかにもロマンティックな出だしにはゾクゾクさせられるものがありますね。
ところが、その後が続かない・・・。グリーグのピアノ協奏曲
と同じ陥穽に落ち込むような印象です。
(非常に個人的見解なのですよ、もちろん)
「ヴァイオリンのショパン」とも言われるヴィエニャフスキですが、
作曲家であると同時に演奏家であっても、必ずしも両方がうまくいくとは限らないわけで、
やっぱり演奏家としての力量の方が上回っていたのかも・・・ですね。
1880年に45歳で亡くなるまでの決して長くない人生は、
名演奏家であればこそでしょうけれど、楽旅に出かけては大金を稼くものの、
大酒くらうし、ギャンブル三昧でもあったといいます。
賭けに負けたために、愛用のグァルネリを手放したこともあったとか・・・いやはや。
それでも、最後の6年間はブリュッセル音楽院ヴァイオリン科の教授を務めて、
フランコ=ベルギー派の奏法に大きな影響を与えたそうですから、
やはり演奏家としてのヴィエニャフスキを認めないわけにはいきませんよね。
ところで、もう1曲のシマノフスキ。
こちらはヴィエニャフスキの亡くなった2年後の1882年生まれということで、
もっぱら20世紀に活躍した人ということになりましょう。
それだけに、1933年に完成したこのヴァイオリン協奏曲第2番は、
高音があちらこちらと浮遊するような音色と、構成が単一楽章という点でも
かなり現代の方に近寄っている感がありますね。
一聴、近寄りがたいところがありますけれど、
繰り返し聴くとじわじわ良くなってくるという不思議な魅力を湛えています。
20世紀音楽でポーランドの作曲家たちが果たす役割の先駆的なグループであった
「若いポーランド楽派」、その中心人物がシマノフスキ。
後継者たちほどの知名度はないかもしれませんけれど、
もう少しあれこれの曲に接してみようかなと思ったのでありました。