新しくなったNHKの「日曜美術館」
で、昨日はアングルを取り上げていました。
このところちょうど「レアリスム」関係の探求に勤しんでいたこともあり、
その対抗要素であった「アカデミスム」にむしろ目を向けてみるかと思っていた矢先だものですから、
ここでアングル探求に向かったわけです。
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル。
正統的な歴史画、神話画、そして肖像画の作者として、
またエコール・デ・ボザールの校長になったりしていますから、
まさに「アカデミスム」を体現しているのではないか…と思っていたのですけれど、
先の「日曜美術館」でも指摘のあったように、どうやらそうではないらしいのですね。
番組で注目していたのは、裸婦を描いた作品群。
元来、理想的な美を追求するにあたって、何も身に着けない姿の理想形を裸婦に求めたのでしょうけれど、
(男性像もないことはないですが…)
何をもって理想とするのかが、分かれ目なのでしょうね。
普遍的に誰から見ても理想的な姿というのがあるのかどうかは微妙ですけれど、
昔々は「かくあるべし」というのがあったのでしょうから、それを具現化することが目指されたわけですが、
こうした理想化が、クールベ
あたりには気に食わないところで、
「そんなありもしないものが描けるか!」となるわけです。
では、アングルはというと、「女性を理想的なまでに美しく描く」というよりも、
「女性をモティーフにして描きはするものの、理想的な『美』を生み出すためには何でもあり」
ということになりましょうか。
この「グランド・オダリスク」(1814年)は、「脊椎が3つ分、背中が長い」と言われたそうです。
そんな背骨が余計に入っているような、ありえない人間を描いたと批判されるわけですけれど、
アングルにとっては、ひとつの作品としてまとまりある仕上がりには、長い背中が不可欠だったのですね。
こういうデフォルメ(!)を施しながらも、正統の中に自らを位置づけている姿勢に疑いはないのか、
アングルはこんな微妙な言葉を残しています。
真実ということに関して言えば、私は多少の危険を冒してもそれから僅かに隔たったものの方が好きだ。真実が真実らしく見えないことがあることを私は知っている。
もうひとつ晩年の作品で「パフォスのヴィーナス」(1852-53年)があります。
これは、女性の背中のラインが織り成す美しさを描こうとすると隠れてしまうはずの胸を、
ひとつの画面に入れ込み、人間の姿としてはありえないながら、美しいものを提示しようとしたと言われます。
先の番組で解説されるまでもなく、
異なる視点から見たものを画面上に再構成して立体化を図るキュビスムまでは
あと一歩なのではということに気付くわけです。
ということで、思わぬ先鋭さを見せていたアングルですけれど、
当時のアカデミスムどっぷりという画家は山のようにいたであろう中で、
やはり歴史に残っていくというのは、こうしたとんがったところがあらばこそ、なのかもしれないですね。

