予告編に眩惑されて映画を見てしまうのと同様(なのかな?)に、

書評に釣られて読んでしまう本が多いのですけれど、

ついつい釣りこまれた作家・重松清さんの書評は、こんなふうでした。


物語は現実の範疇に収まっている。それでいて、現実の日常からほんの少しだけ遊離したところに、二人の暮らしはある。その「ほんの少しだけ」の距離を、物語は静かに保ちつづける。そうすることで、まるで輪郭がわずかにずれた二重線で描かれた絵が立体に見えてくるように、あらすじでは語れない日々の営みへのいとおしさがじわじわとたちのぼってくるのだ。

どうです。釣られてしまいませんか。

吉田篤弘さんの「小さな男*静かな声」です。


吉田篤弘「小さな男 * 静かな声」

おもな登場人物は、「ちいさな男」と「静かな声」の女。

それぞれが交互の章立てで、それぞれの日常を語ります。


「小さな男」は、小さな男ではあるけれど、

「ちっぽけな男」ではないと思っていますが、日常はいたって平穏。

いささかとうの立った独身男性には、それなりにマニアックなところがあっても、

いわば許容範囲の普通さと言えないこともない。


「静かな声」の方は、声を活かしてラジオのパーソナリティーを務めているといえば「華々しい」ようですけれど、

自分では良さがわからないために、訊かれれば職業を偽って伝えるという具合。

普段の生活は、やはり三十ウン歳という独身女性の平凡さを絵に描いたよう。


それぞれを容易に我が身に置き換えることが可能と思える毎日の、

それこそ重箱のすみをつつく感もある様子が語られるのですが、

これまた、職業こそ違え、「おれの毎日はこんなんだよ」「わたしのふだんはこんなもん」と

言えてしまうものではありましょう。


その淡々さも「また良し」ですけれど、

ちょうど物語半ばで、ようやく二人にいささかの接点が生まれます。

(言っちゃいますが、二人は最後まで出会うことはありませんから、そのつもりで)


きっかけがまたどこにでもあるものなわけですけれど、

友人や弟妹を介して、微妙な変化が現れるのですね。

日常の何かが大きく変わるわけでもない。ようは「気の持ちよう」みたいなものです。


その「ドラマチックでなさ」があまりにも身近だものですから、

読み進むにつれて、何やらじんわりとした「元気」となって伝わってくるわけです。


もしかすると、このじんわりは普通で、平凡でという人でないと伝わらないのかも…

とすれば、読み手を選ぶ小説なのかもしれません。

ただ、使い古された言葉ながら「一億総中流」と言われるだけに、

決して他人の話ではないという方が多いのかもしれませんけれど。


幕切れに向けて、にんまり度合が徐々に高まれば、

主人公たちと同化していった証拠かもしれませんね。