ホイッスラー 探究から「リアリズム」を介して、かたやクールベ に向かい、

かたやラファエル前派に向かうのでありました。


とはいえ、ラファエル前派ではジョン・エヴァレット・ミレイ の展覧会を見て、

そして関わりのあるところではジョン・コリア の絵に遭遇したりて、多少興味は出てきたものの、

総帥である?ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの絵がどうも苦手だものですから、

敬遠しがちなところなのですけれど、やっぱりこちらもまた「リアリズム」の流儀といいましょうか。


「どれほど些細なディテールであれ、すべてを最大漏らさず自然だけから描くことによって得られる完全で揺るぎない真実」

これが、ラファエル前派の運動の身上とするところのようですから、やっぱり「リアリズム」です。

とはいえ、ラファエル前派の中心人物たるロセッティ、ミレイ、

そしてウィリアム・ホウルマン・ハントはそれぞれに画風も対象も異なるものですから、

むしろその運動に追随した人たちにこそ純化した理念が生きているのかもしれませんね。


例えば、風景画指向のハントに従ったジョン・インチボールドの「初春」(1855年)を見てみます。


ジョン・インチボールド「初春」

このくらいの大きさでは分かりづらいと思いますけれど、

木々や下草のさまなど、「スーパー・リアリズム」とは異なるリアルさがありますね。

このあたり、「リアリズム」の何たるかは、「いかに自然のそのままであるか」でなくとも

「自然に相対したときと同様の思いがそのままに立ち現れるか」ということでもあろうかと。


とまあ、そんなことを思いつつ、ラファエル前派の画集をぱらぱら眺めていて、

またしても、これまでほとんど意識したことのないひとりの画家の作品に出くわしました。

アーサー・ヒューズ(1832-1915)の「オフィーリア」(1852年)です。


アーサー・ヒューズ「オフィーリア」

なんでもこの作品は、1852年のロイヤル・アカデミー展に

ミレイの「オフィーリア」と同時に出品されたといいます。

そして、ミレイとヒューズはこの絵の前でであったとかいう、まるで作り話のような話が残っているのですね。


Bunkamuraザ・ミュージアム でミレイの描いた「オフィーリア」を見て、

狂気の果てに水に身を委ねてしまったオフィーリアの姿がナマナマしく描かれているのを

目の当たりにしたのですけれど、こちらはまだ生きているところ。


それでも、むしろこちらの方が生身の人間としての狂気をうかがわせるところもあり、

また妙に無機質な印象からSFの一場面なのでは?!とも思えてしまいます。


そして、もう一枚が「四月の恋(エイプリル・ラブ)」(1855-56)。


アーサー・ヒューズ「四月の恋」

ポエティックなタイトルからは、そしてもちろん絵の印象からしても、

何かしら物語を紡いでしまおうか…と思わせるものなのですね。


どうしても、ラファエル前派というと「そりゃ、なんつってもロセッティ」と思いがちなところで、

食わず嫌い的に敬遠してばかりいては、こうした作品にめぐり合うこともなかったわけで、

「嫌いかも…でも、もしかしたら…」とあれこれに触れてみないと

もったいないものを見逃すことになってしまうということかもしれませんね。