またしてもFM放送から流れてきた音楽を聴いて、ふと思いついたのですね。
曲は、有名なあまりに少々手垢がついてしまった感があり、
わざわざ聴いてみようとは思わないような一曲。
ジョアッキーノ・ロッシーニ作曲の歌劇「ウィリアム・テル」序曲です。
小さな交響曲とも言われるように、全四楽章ならぬ四部構成で、
それぞれが個性的で変化に富んだ曲調は聴いていて楽しいものではありますけれど、
昔のテレビ西部劇「ローン・レンジャー」を思い出し、
「ハイヨー!シルバー!!」などと思わず口走ってしまいそうなのですよね。
(と言っても、番組自体は知らないのですが・・・)
そんな曲ではありますが、あらためて聴いてみますと
「やっぱりよく出来た曲だな」と思ったわけです。
ただ、今回の印象はそういうことではなくってですね、
最後の行進曲が大盛り上がりに盛り上がって全曲のお終いとなるその時、
まさに今、幕が上がってオペラが始まる…といったワクワク感が湧いてきたのですね。
ということで、ふと思いついたのは
そもそも「序曲」というものは、これから始まる歌劇や芝居の導入部ではなかったか…
という当たり前のことでありました。
なのですけれど、オペラを見に行ったときの「序曲」の聴き方は
まさしく「これから始まる」と意識しているかもしれないですけれど、
コンサートなどで、単体の曲として「序曲」が取り上げられたりする場合は、
単体の曲として受け止めているんじゃあないかなぁと。
ですから、曲の終わりには「始まり」を感じるのでなくって「終わり」を感じるという。
聴き手側からすると、こんな感じかと思う一方、
それでは演奏する側というのはどうなんだろうと思ったのですね。
例えば、指揮者がオペラを振る場合にその序曲をどう仕上げようとするかと、
同じ序曲を演奏会で取り上げるときにどう仕上げようとするか…
ここに違いは、違った思惑はあるんでしょうかね。
そこで、オペラの「序曲集」を聴いてみることにしました。
この際ですから、ロッシーニの序曲集。
1971年と古い録音ですけれど、クラウディオ・アバドがまだ40代で意気軒昂な頃、
ロンドン交響楽団を振ったものです。
(ちなみに「ウィリアム・テル」序曲は収録されてない…)
同じ頃録音した「セヴィリアの理髪師」がヘルマン・プライのフィガロを得て、
かなり楽しめる演奏だったものですから、さてどんなかなと思ったところでもあるのですね。
まずはその「セヴィリアの理髪師」序曲からですけれど、
これまた手垢すれすれの有名曲ながら、久し振りに聴くと「楽しい曲だよなぁ」と。
なにしろオペラのおいしいところをギュギュッと濃縮還元しているわけですから。
でもって、注目は終わり際なのですけれど、
なんだか幕が開きそうな気配をちょっとねじ伏せて一曲にまとめてみました!的な感じがしました。
ただ、これって「そもそも『序曲』というものは…」みたいなことを考えて聴いてみたからかも、ですね。
本来のオペラ導入部としても、単体の楽曲としても、それぞれに楽しめば良いということでしょうか。
「セヴィリアの理髪師」のあと、「チェネレントラ」、「どろぼうかささぎ 」、「アルジェのイタリア女」などの
序曲を聴きながら、そんなふうに思ってしまったのでありました。
なんてことのない結論…。
そうそう、先の「ウィリアム・テル」序曲ですけれど、これはネヴィル・マリナー指揮のASMFの演奏。
もう一度聴いたら、どんなふうに思いますかねえ。
