この間、新日フィルの演奏会 でアーロン・コープランドの「クラリネット協奏曲」を聴いたものですから、
この機会に少々コープランド探究をしてみようかと思ったのですね。
本当は、音楽の友社の「近代・現代英国音楽入門 」や「近代・現代フランス音楽入門 」のような本の
アメリカ版があればいいなぁと思っていたのですけれどね。
そしたら、コープランドやガーシュインを始め、グローフェやバーバー、アイヴス、ヴァレーズ、ケージ、
そしてバーンスタインまでも、極めてお手軽に探究できてしまうところなのですが・・・(あるのかな…)。
まあ、そんなことを言っていても始まらないので、
コープランドのピンポイント探究ですけれど、
頼りにした本は「アーロン・コープランドのアメリカ」というものです。
訳者まえがきに曰く、
この著作は、1人の音楽家の伝記でもなければ、ましてや芸術史書でもない。…コープランドの創作態度の変遷を一方に、社会一般の変化とそれに付随するアメリカ的美意識の移り変わりをもう一方に据えることにより、複眼的な視点に立つことを試みた著述…
ということになるのですけれど、
これがなかなか興味深いものなのでありました。
通史ではないので、少々時代的に行ったり来たりするところが
全体像をつかみにくくしてはいるとはいえますが。
アーロン・コープランドは1900年、ブルックリン生まれ。
移民ユダヤ人でありながら、両親は百貨店(?)を経営していたといいますから、
いささかお金には余裕があったのでしょうか。
早くから作曲を志し、21歳でパリへ留学するのですね。
そのパリへの留学に向かう船の中で、意気投合したのがマルセル・デュシャンだったといいますから、
なかなかに前衛的な方向性を持っていたことを想像させます。
実際、留学初年の1921年8月3日にコープランドが両親に宛てた手紙には、こんな一文があるのですね。
残念ながら、僕の作品は大喝采を浴びました。残念だというのは、人気作品によいものはあり得ないという考えが、どうしても頭から離れないからです。
当時のコープランドは、
パリで相当に刺激的な芸術家たち(音楽の分野ばかりでなく)と付き合ったのでしょうし、
ニューヨークに戻ってからも、デュシャンとの付き合いも含め、
アルフレッド・スティーグリッツの仲間たちと行動をともにしています。
この頃からコープランドは、スティーグリッツ周辺の芸術家たちと同様、
「アメリカ的」な芸術を生み出したいという野心を抱いていたようなのですね。
最初はかなりとんがった(?)芸術を指向していたのかもしれませんけれど、
やがてコープランドは、左がかった思想へと傾斜していきます。
そこで「はた!」と気づいたことには、あんまりとんがった作風を指向していては、
左翼が相手にする大衆に理解を得られないということなわけです。
そのような変遷の中で生み出されてきたのが、「エル・サロン・メヒコ」(1936年)。
この間も、コープランドの音楽を「西部劇のような…」と書きましたけれど、
この曲などは典型的で、まさしくウェスタンを思い浮かべるものではないでしょうか。
親交のあったメキシコの作曲家、カルロス・チャベスがコープランドをメキシコに誘った折、
エル・サロン・メヒコという風変わりな夜の盛り場に連れて行かれ、
そのダンス・ホールの雰囲気があまりに印象に残ったため、
「そこを出るころには、もう楽想が芽生えていた」とコープランドは述懐しています。
その時の様子でしょうか、こんな絵ががあります(ちなみにピアノを弾いているのがコープランド)。
コープランドにとってのアメリカとは、合衆国にとどまらないものだったのかもしれませんね。
アメリカにとっての国境線など、後から人為的に引かれたものでしかないでしょうから。
でも、こうした「アメリカ」に目を向ける姿勢があってこそ、
その後にアメリカ古謡やカウボーイ・ソングを取り入れたバレエ音楽「ビリー・ザ・キッド」(1938年)や「ロデオ」(1942年)が生み出されるわけですし、後世にコープランドの音楽を聴く者としては、初志を貫徹しなかった変容に感謝しなくてはならないところです。
この辺りの曲を聴くには、やはりレナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルを振ったものが良いかなと。
アンタル・ドラティ指揮のデトロイト響も聴きましたけれど、
なんだか歯切れがよろしくないような…。
スカっとしたバーンスタイン盤で「アメリカ」を味わってみてはいかがでしょうか。
なにしろ、アーロン・コープランドの音楽は「これぞ、アメリカ音楽」と言われているくらいですから。


