先日、パリ万博に関する本
を読んでいて、
俄然注目度アップだったのが、ガブリエル・フォーレです。
そこで早速にフォーレ探究とばかり、本を一冊読んでみました。
フォーレの生涯をたどりつつ、
そのときどきのゆかりの地を訪ねた紀行でもあるという
エッセイ風味の一冊でありました。
19世紀のフランスは、絵画の世界でも同様ですけれど、
お偉いところを古典的なアカデミスムが音楽界をも
支配していたわけですね。
むしろ美術界よりも「たちが悪い」ような気がしないでもありません。
絵画の場合は、いかに画壇で認められなくとも
仲間うちでも何でも自分たちの信ずるところを作品に込めて制作できていたところではありますけれど、
音楽界の権威はオペラ一辺倒。
反面、オペラでない音楽はといえば、相も変わらずベートーヴェン こそ!だったようなのですね。
普仏戦争で、皇帝ナポレオン三世のみならず、大きな痛手を被ったフランスであってなお。
そんなかたぁいアカデミスムが残るフランス音楽界に「喝!」を入れたのが、なんとフォーレだったとは。
もっとも、1845年にフランス南西部の片田舎に生まれたフォーレは、
最初から大それた存在であったわけではなさそうです。
田舎の出ではあっても、楽才は豊かだったのでしょう、ピアノが巧みということで、
9歳からパリに出、ニーデルメイエール古典宗教音楽学校で学ぶことになります。
この、学んだところがコンセルヴァトワールでないというところが、
実は後の改革者たるフォーレにつながることになるわけです。
が、かなりののんびり屋さんだったフォーレは、1868年頃になっても「大作曲家になろう」などという野心もなく、
1922年に昔を振り返った談話の中で、こんなことを言っています。
絶えず励まして、私がまどろんでばかりいないようにしてくれたのは、サン=サーンスであった。師は私に作曲するように勧め、さらに作品を送るように強要した。
結局、ローマ大賞の取れなかったサン=サーンス は、ニーデルメイエール校で
ずいぶんとフォーレをかわいがり、フォーレの方は師を慕うばかりか甘えていたようなのですね。
甘えん坊のフォーレのその後は、サン=サーンス無くしてはあり得ないということなのです。
でもって、結果、フォーレが改革者たるのもサン=サーンスの影響大と言えそうです。
先に書いたように、オペラ以外に演奏会のメインはベートーヴェン!という当時のフランスでは
演奏されるには何よりオペラを書くしかないという状況。
これを、サン=サーンスらが1871年に国立音楽協会を設立して、
ほとんど聴く機会のなかったフランス人作曲家の作品を演奏する機会を作ろうと呼び掛けたわけです。
しかし、一方で作曲家としての大成は、オペラを書いてこそと思われていた時代だけに、
サン=サーンスはもとより、グノーあたりもフォーレにオペラを書くように勧めたと言います。
大変な生みの苦しみを経て、確かにフォーレは「プロメテウス」(1900年初演)、
「ぺネロぺ」(1907~1913)というオペラを二作、ものするわけですが、
決してフォーレの代表作ともなっていないばかりか、今日では演奏されることもありません。
(フォーレの代表作は、何と言っても「レクイエム 」)
結局、19世紀も末ともなれば、グノーやサン=サーンスが信じた神話は崩れかかっていたのでもありましょう。
それはオペラを手掛ける以前の1896年10月には、フォーレがマスネの後任として、
パリ音楽院(コンセルヴァトワール)の作曲科の教授になったことからも言えることかもしれません。
アカデミスムに浸っていない作曲家がアカデミスムの牙城の作曲科にやってきた。
かくして、ここからラヴェル やフロラン・シュミット、そしてケクラン、エネスコ、ナディア・ブーランジェといった
二十世紀の音楽界で活躍する優秀な弟子が育っていったのですから、
やっぱりエコール・デ・ボザールでのギュスターヴ・モロー のクラスのようですよね。
そんなフォーレがパリ音楽院の院長になるのが、1905年。
ラヴェルのローマ賞に絡む事件で辞職したテオドル・ルヴォワの次の院長というわけです。
これはずいぶんと世の中にとって意外だったようですね。
なぜなら、フォーレはパリ音楽院の出身ではありませんし、ローマ賞受賞者でも学士院会員でもありません。
また、作品も教育方法も音楽院のアカデミズムの伝統に則っているわけではありません。
なにしろ、歌曲集「優しい歌(よき歌)」を聴いたサン=サーンスは
「フォーレは気が狂った」を叫んだという逸話があるくらいですから。
これは、サン=サーンスが自ら教えた和声学を遥かに超えた前衛的音楽を
弟子のフォーレが作り出したことへの驚きからくる絶叫であったろうと、冒頭の本の著者は言っています。
(これは、もっぱらワーグナー の影響らしいのですが・・・。)
最後に、フォーレがパリ音楽院の院長就任にあたって「フィガロ」紙に掲載された抱負を引用してみましょう。
私は古典と同時に現代の芸術を擁護する者でありたい。これは聖なる伝統で現代人の好みを犠牲にすることでもないし、流行の気まぐれで伝統を犠牲にすることでもない。私が特に勧めるのは、自由主義である。・・・それが、熟慮したものであり、真剣な教義によるならば、いかなる様式でも排除しない.。
現代人にとっては「なんか、当たり前?!」といった発言であっても、当時は爆弾発言的内容かも。
田舎生まれのおっとりした性格、師匠には甘える坊やが、こんな改革者になりました。
人生というのは、分からないものですね。予測は不可能なのではないでしょうかねえ。
おお、最後の最後に備忘録的に、フォーレの妻、マリーの父エマニュエル・フルミエは彫刻家だったそうで、
セーヌ にかかるアレクサンドル三世橋にある馬の像を作った人なのだそうですよ。