去年が没後60年だと思ったら、今年は生誕100周年だそうで。
作家太宰治のことです。
昨年末に、没後60周年の企画展 を見てきて、
太宰が川端康成に芥川賞をねだる書状が印象的だったものですから、
その時の作品「晩年」を読んでみるか…と手元の文庫の山のなかから
「あった、あった」と取り出して読み始めてみると、
「おや?」と思ったところ、「斜陽」だったのですねえ。
読み始めたついでだし、久し振りなので、読んでしまいました。
ほとんどの方がご存じとは思いますけれど、
「斜陽」をWikipediaの紹介文から引用すると、こんな具合です。
没落していく人々を描いた太宰治の代表作で、没落していく上流階級の人々を指す「斜陽族」という意味の言葉を生みだした。
また、今の角川文庫(右上の画像)とは異なっていると思いますけれど、
手に取った角川文庫のカバー裏にある紹介文の方はこんなふう。
「私生児と、その母、けれども…古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生き」て行く一人の女。結核で死んで行く「日本で最後の貴婦人」のその母。自分の体に流れる貴族の血に反抗しながらも、戦い敗れて、宿命的な死を選ぶ弟。昭和二二年、死ぬ一年前のこの作品は、作者の名を決定的なものにした。
「斜陽」というタイトルとともに、広く世に知られた印象というのは、
まさにWikipediaの紹介の方ではないですかね。
ところが、文庫の紹介の方にあるように、一番最初に出てくる「太陽のように生きていく一人の女」が
全編を通じた主人公だとすると、これはもう一般的な印象どおりの「斜陽」ではないと分かってきます。
作者としても、本来はチェーホフの「桜の園」 を書いていたといいますから、
本来はここまで、かず子(太陽のように生きていく女のことですね)のたくましく自立した姿を描くというより
太宰自身の出自に擬えて没落貴族を描くことが主筋であったと思われますけれど、
なにしろ小説の元が自分のことですから、自分の周囲で状況が変化すると、
自ずと筆の方向もまた転換してしまうようで…。
という筆の滑り(?)はともかくとして、本来描こうとした没落貴族のことですけれど、
「まあ、読めば分かるよ」というのはそのとおりであるとしても、
貴族の没落具合、つまり斜陽の具合というのは、そうした描き出されたものから感じるだけでしょうか。
むしろ登場人物の、端的に言えばヒロインかず子の「言葉遣い」が鍵なのではないかと思ったのでした。
家庭の生活水準を測る物差しとしてエンゲル係数が使われることがありますけれど、
家計に占める食費の比率が高いと、他の費用に回す余裕の無さが想像され、
生活水準の低さにつながると考えるわけですね。
今のご時勢では、一点豪華主義的に、食事にこそ多くの費用を投じる
美食家(飽食家?)の方もおいででしょうから、必ずしも当てはまるものではないのかもしれませんが、
生活水準の高低が、例えば家庭の文化的な度合い(音楽会に行ったり、観劇したり…)を類推させる
ところにもなったりするのですね。
つまり、収入のほとんどが食費に持っていかれてしまうといった状況がなければ、
子供を小さな頃から文化的なものに触れさせる機会も増えることになりましょう。
そうした環境で育った子供は、自ずと文化的な生活(というのかな…)が自然なものとして
さらに子供たちにも受け継いでいくという。
前置きが長いですが、「言葉遣い」というのも、同じようなところがあるのではないかと思われるのですね。
時代もののドラマなどを見ていると、(どこまで時代考証が行き届いているかは別として)
公家は公家らしき言葉をしゃべり、侍は侍然として、また庶民は庶民っぽく喋っています。
ということろで、ようやく「斜陽」に描かれ、没落貴族と言われる家庭での話になりますが、
この家の「母」は、「日本で最後の貴婦人」(主人公かず子の見立てですが)ということになっています。
「母」は物語の間中、病気でもありますので、言葉数が少なく「貴婦人」度合いはわかりませんけれど、
かず子もいかにもおっとりとしたお嬢さまのような、非常に丁寧な言葉遣いですから、
母親は推して知るべしなんでしょう。
ところが、そのかず子の非常に丁寧な言葉遣いに、実は違和感を抱くのですね。
例えば敬語、というより丁寧語(美化語とも)の使い方といったらいいでしょうか。
名詞の頭に「お」や「ご」を付ける言葉が山のように出てきます。
本来的に、貴族(日本でいえば公家でしょうか)の言葉は長く連綿と培われたものがあるわけで、
思うに公家らしい話し方、言葉遣いもまた歴史の産物としてあるのだと思いますから、
何にでも「お」や「ご」を付ければ、貴族らしい話し方になると思ってしまうこと自体、
もはや貴族から離れて擬似貴族化してしまっているように思えてきます。
この貴族から擬似貴族への転化が、世代交代していくうちにじわじわと起きている。
これが「没落」といったこと、「斜陽」といったことではないのかなと思うのですね。
貴族が貴族としているパワー(金銭的なものも含め)があれば、
この没落傾向、斜陽化には歯止めがかけられる可能性があるのでしょうけれど、
もはやこの家族にはそのパワーが残っていなかったのですね。
ストーリーに描かれた、「ああ、おちぶれていくのだな」といった「いかにも」な描写や説明よりも
言葉遣いでそれを感じられるとすると、それを意図的に太宰が使ったとすれば、
何と計算高い!とも思えますし、また太宰が自身の言葉として書いていたのであれば、
やはり太宰自身が紛れもなく、言葉の上のみならず、没落貴族化していたのではなかろうかと
思ったのでありました。
まあ、個人的にはどっぷり「庶民」ですので、そんなふうな印象を受けたということで…。
