この映画、タイトルが「ワールド・オブ・ライズ」ですから、
てっきり原題が「World of lies」なのだろうと思うと違うんですね、これが。
本当のタイトルは、「Body of lies」。
ですから、勝手に解釈させていただくと、「偽りの世界」を描いたわけではなくして、
「偽りの本体」といったところでしょうか。
レオナルド・ディカプリオ演ずるところのCIA工作員フェリスは、
イラクで、そしてヨルダンで、まさに死と隣り合わせの状況で活動を続ける中では、
嘘偽りなど日常的に駆使しなくてはやっていけない世界にいます。
一方、ラングレーのCIA本部にいて、
常に衛星による映像でフェリスの活動を見続けるホフマン(ラッセル・クロウ)は
現場の微妙な状況よりも、作戦の本筋の続行を迫っていくわけです。
ここらあたり、フェリスにとっては「事件は会議室で起きているんじゃない!」という
「踊る大捜査線」の青島刑事に大きくうなづくことでありましょう。
それはともかく、スパイの諜報活動ですから、仲間うちであっても、たとえ上司と部下であっても、
嘘偽りはやむを得ないとする世界、その点ではまさに「ワールド・オブ・ライズ」なのでしょうね。
フェリスが協力を取り付けるべく乗り込んだヨルダンの総合情報総局では、
局長のハニ・サラームから「協力してほしいなら、私には決して嘘をつくな!」と言い渡され、
彼らにとって日常的であるはずの「嘘偽り」と、嫌でも向き合わされることになりますから、
なおのこと「ワールド・オブ・ライズ=嘘偽りの世界」を描いていると思えてくるわけです。
ところが、この映画が描こうとしたことが「偽りの本体」だとすると、
どういうことになりましょうか。
これはもう、諜報活動、諜報員、諜報局そのものということになってきますね。
そして、それを容認する世の中ということでしょうか。
非常に象徴的なのは、中東から遠く離れたアメリカで、
ホフマンは一見普通の家庭生活を営んでいます。
かつて、アーノルド・シュワルツェネッガーが「トゥルー・ライズ」で見せたような、
「ほんとはおれ、スパイやってんだけど、かみさんにはとても言えないからセールスマンてことにしとこう」
といった、(むしろかわいい)嘘はついてる気配もなく、
家にいてもフェリスとの交信を怠ることは無いのですね。
ごくごく普通のお父さん然として子供の相手をしながら、
テロリスト対策(いざとなれば、片付けてしまえ!的な)の話をしているわけです。
アメリカの平和、ひいては世界の平和のために行っているとの大義を感じているからこそなのでしょうけれど、
どうしても何かぎくしゃくしたものを感じてしまうところです。
「欺瞞」という言葉が、頭をよぎります。
前に「監獄制度」に関する議論 に触れたときに、
監獄は必要悪だとしても代替の機能を果たす何かを見出しにくいのが問題だなと感じましたけれど、
いわゆるスパイみたいなものも、必要悪の状態にあるのかなと。
根本的にスパイ活動の対象が無くなることが、本当の解決になるのですよね。
大義という、もしかしたら立場によって変わるものさしで、他を排除することの是非。
それを思い惑うこともなく、普通のこととして日常生活を送れるという、何かしらの感覚の麻痺。
ここに「欺瞞」のようなものを見ないとすると、偽りの本体に取り込まれているのかなぁと…。
