この間の新日曜美術館で佐伯祐三 が紹介されていたのを見ていて、
つらつら思いめぐらしていたことなのですけれど、
佐伯の描いたものというのは、実はアメリカのポップ・アート と同じことなんじゃないかなと。
佐伯が描き続けたのは、パリの街の風景。
例えば、先の番組でも紹介されていた「広告(アン・ジュノ)」を見てみます。
一方で、ポップ・アートを代表する一人として、ロイ・リキテンスタインの作品。
東京都現代美術館が購入にあたって大騒ぎとなった「ヘア・リボンの少女」(1965年)です。
これのいったいどこがおんなじなのか…というと、絵の印象は同じでないのは一目瞭然ですけれど、
絵に描く題材の選び方といったらいいですかね。
東京都現代美術館がそもそもリキテンスタイン作品の購入でやり玉にあがったのは、
「あんなマンガで、6億円?!」ということだったわけですけれど、
本来、絵というのは「そこにある」ものを描いていい、描いちゃいけないというものではないですよね。
だから、佐伯の場合はパリの街角を描いた「だけ」で、
描かれる対象が「風景」だからよくって、「アメ・コミのひとコマ」でいけないことはないわけです。
そして、改めて佐伯を見てみると、街角の風景であっても、
べたべたと広告の貼られたところが多いのが特徴でもあります。
とりわけ、上の「広告(アン・ジュノ)」では広告文だけでなく、
絵柄のあるポスターのようなものも貼られているのが見えますね。
白い馬に乗った人のような…サーカスの宣伝か何かでしょうか。
この佐伯作品は見るからに街角を描いた風景画ですけれど、
仮にさきほどのポスターにぐぐっとフォーカスしていったらどうなりましょうか。
「ポスターという既存の絵」を描いた絵になってしまうわけです。
リキテンスタインがアメ・コミのひとコマを描くこととの違いは、あるんでしょうかね。
んなこと言っても、佐伯はポスターにフォーカスせずに、あくまで風景を描いているではないか!
その通りなんですが、いくつも既存の印刷物(手書きもあるかな)を描いていたら、「絵」になるんでしょうか。
だったら、リキテンスタインがアメ・コミの複数コマを描いていたら・・・?
これは単に思いつきの話ですし、仮に「絵」だと、「芸術」だとしたからと言って、
それが何億円もの値打ちがあるのだということにつなげるものではありません。
ただ、こんなことを考えていくと、絵を見るのって面白いよなあと改めて思ったのでありました。