土屋賢二「もしもソクラテスに口説かれたら―愛について・自己について (双書哲学塾)」 もし「わたしはあなたの顔も性格も嫌いですが、あなた自身を愛しています」

と言われたら、うれしいだろうか・・・


プラトンの対話編にある、ソクラテスとアルキビアデスとのやりとりから

こんな投げかけを取り出して、お茶の水女子大学の土屋賢二先生が、

哲学ビギナーの学生たちとゼミ形式で対話する様子を収録したのが、

この「もしもソクラテスに口説かれたら」。

岩波書店「哲学塾」双書の一冊です。


ソクラテス曰く、

 人間は道具を「使うところのもの」である

 道具は人間に「使われるところのもの」である

 「使うところのもの」と「使われるところのもの」とは同じものではない

 つまり、人間と道具とは別ものである

 同様に、人間は身体を「使うところのもの」である

 身体は人間に「使われるところのもの」である

 だから、人間と身体とは別ものである

 どうやら他の人たちは、君の身体を愛しているようであるが、

 私はあなたという人間、あなた自身を愛しているのだ


つまり、身体つきや容姿、そして、先の引用では省きましたけれど、人間そのものではない性格なども含めて

ソクラテスにとっては「そんなの、どぅでもいいもんね」ということらしく、

とにかく「おれは、きみそのものを愛しているのだから、誰よりも愛しているのだよ」と言って

口説いているというわけです。

容姿がくずれていようと、ちびだろうが、でぶだろうが、のっぽだろうが、やせっぽちだろうが、

性格が悪かろうが「そんなの、関係ない!」というのですね。


そういうことって、あるだろうか?

本当に言われたら、どうする?

というやりとりをお茶大生と展開するんですけれど、

さる書評で「おのずと刺激あふれる哲学の迷宮へ足を踏み入れることになるだろう」との紹介も

実はあまりピンときません。


なぜかと言うと、この議論をふっかけられた学生たちがあんまりピンと来てないからではないかと。

学問への、哲学への興味を引きだすという点から着目された「論点」だと思うのですけれど、

どうも議論が上滑りしているような…

そして、土屋先生が説明しようとすればするほど、詭弁に聞こえてしまう。


「人間」の根本を問うという意味では面白かったとは思うのですが、

他にお読みになった方がいたとしたら、読後感としてはどんな考えがよぎっているでしょうか。