シムノン
→デュフィ
→ドビュッシー
→ミュンシュ
→ブラームスという興味つながりでたどり着いたブラームスを少々探究してみることに。
そこで、本を一冊読んでみました。
やっぱり、ロベルト・シューマンとの深いつながり、
そしてクララ・シューマン とのふかぁいつながりが見えてくるのですね。
ブラームスの才能を見抜いた(と思いこんだ?)シューマンは、
楽譜の出版やら何やらと頻りに世話を焼くわけです。
このこと自体は、彼が世に出るきっかけを作ってくれたわけですから、
シューマンはブラームスにとって大恩人であり、
終世敬意を抱き続けるのもなるほど!ではあります。
ですから、この出会いは「なんと幸福な!」…本当にそうだったんでしょうか?
ブラームスに才能が無かったなどというつもりはありませんけれど、
シューマンの惚れ込みようというのは、実はブラームスには負担ではなかったのかなと。
「ブラームス君!きみこそ、ベートーヴェン以来のドイツ音楽の伝統の衣鉢を継ぐ者なのだよ!!」
これは、相当以上のプレッシャーになりますよね。
ベートーヴェン以来のドイツ音楽の伝統…他の国でなくて、ドイツならでは個性。
これはもう、ベートーヴェンの9つに比肩する交響曲を書きなさい!
と言われているようなもの。
直接、書けとは言われないにしても、敬愛する恩人から「君ならばできる」と期待されてしまったら、もう「やるっきゃない!」わけですよ。
そして、さらに恩人のそばには生涯愛情を注ぎ続けることになる女性クララがいるわけです。
彼女の前でも、「ええかっこしい」したいじゃあないですか、
ブラームスだって、ひとの子ですから。
となると、シューマンとの出会いは同時にクララとの出会いでもありますから、
この出会いは幸だったのか、不幸だったのか・・・。
作品の数などから傾向的に考えると、ブラームスは基本的に室内楽の作曲家であり、
歌曲・合唱曲の作曲家なのですね。
ところが、与えられた課題は「交響曲」、
そして採点基準としては「ベートーヴェンに比肩するものであること」。きついですよね。
以来、2台のピアノのためのソナタの管弦楽化を図ろうしたり、
シンフォニーにするはずが如何ともしがたくなって「ピアノ協奏曲」が誕生したり。
苦節20年といいますから、綾小路きみまろもかくやです。
ようやく交響曲を書きあげた後は、いくらか気負いも抜けたのか、
さらに3曲のシンフォニーを書きますが、結局は室内楽的指向に戻っていく。
ほっとしたんじゃないでしょうかね。
でも、この生涯をかけることになってしまった「課題」は、
ブラームスに生みの苦しみを味わわせただけではないのですね。
ベートーヴェン後の音楽事情はといえば、シューマンの言う伝統とは別に、
むしろ交響曲のようなかっちりした構造の音楽からは
離れていくようなところがあったわけです。
そのような新たな潮流を生み出し、これにのって当時活躍していたのが、
リストやワーグナー 。
この新たな流れである「新ドイツ主義」に対して、
伝統を背負う対抗馬に祀り上げられてしまったのがブラームスでした。
生来、かっちりした音楽への指向はあったのかもしれませんけれど、
交友のあったヨハン・シュトラウスの、流れるメロディをうらやんだというブラームス。
ショパン などは、「ワルツやポルカにうつつを抜かすウィーン」に呆れて、
パリに行ってしまったといのに。
ブラームスがシューマン夫妻と出会わずにいたとしたら、この紅顔の美少年はどうなっていたことでしょうか。
晩年のひげもじゃ巨漢の写真とは似ても似つかぬ
この少年(20歳頃)が作る音楽はどんなだったでしょうか。
クララへの叶わぬ恋慕に苛まれることもなく、
ベートーヴェンに比肩する交響曲を作るという使命を負わされることもなかったとしたら…。
思いを馳せるには若い頃に書いた室内楽に触れてみるのもよいかなと、いくつか聴いてみました。
例えば、弦楽六重奏曲第1番変ロ長調作品18。
27歳のころの作品です。
「渋い」と言われるブラームスの歌う一面が垣間見えてきます。
もっとも、メロディメーカーのチャイコフスキー に言わせると、
ブラームスの作りだすメロディなど、けちょんけちょんに貶されてしまうだけだったようです。
そうは思えないんですがねえ…この曲などは。

