やはりこの間の「新日曜美術館」で取り上げられてしまったせいもあってか、結構続々と入場者のある国立西洋美術館なのでありました。
開催中なのは、「静かなる詩情」とも題された「ハンマースホイ」展です。
始まるときには、ほとんど知らない画家だし、
きっと空いててゆっくり見られそうだなと思って、
「いつ行こうかな」と考えているうちに、
あれよあれよと盛況が伝えられて、
東京都美術館の「フェルメール」展と同時期開催という
企て(?)の賜物か!とも思ってしまいました。
実際、チケット売り場で「フェルメールはどこで見られますか」と聞いている人がいましたから、
フェルメールにしても、ハンマースホイにしても勢いで見に来ちゃう人もいるのでしょうね。
と、あまり他人のことを言えたものでもありませんが。
ところで、このヴィルヘルム・ハンマースホイの作品ですけれど、
確かに人気を呼んでしまうのもわかりますね。
フェルメールと引き比べるのがどうかは別としても、「静かな雰囲気」というのは、見る目を食い入らせる力を持っているように思えるものですから。
先の「新日曜美術館」でも触れていましたけれど、ハンマースホイには後姿を描いた絵が多いですね。
表情が見えるとどうしても「動的」な印象が加わるように思えますので、
これはこれで「作戦」かとも思うところですが、
よぉく考えてみると「うなじフェチ」なんじゃないだろうかと。
上のチラシにある「背を向けた若い女性のいる室内」(1904年頃)は、まさに典型的。
一番光のあたっているところは?と言えば、うなじではありませんか。
とはいえ、ハンマースホイは「静的」なものに多大な興味があったことは間違いないですよね。
でなければ、あんなに誰もいない室内を描くはずがない。
ただ、室内を描いた作品の場合、他の絵からの類推でかの女性(奥さんのイーダ)が
どこかしら見えないところにいるかもと想像するわけですけれど、
風景画の場合となると、そうとも言えないのですね。
例えば、この「旧アジア商会」(1902年)はどうでしょう。
静かなだけでなく、人っ子ひとり見られないというよりも、
画面の外にも「人が存在していない」世界のようではありませんか。
クレスチャンボー宮殿を描いたものなども「ひとの気配」の無さは同様ですけれど、
こちらの方は後景に帆船がある分、何かしら「ひとの予感」があってもよさそうなのに、
それがまったくない!何やら、風さえそよとも吹いていないような・・・
この、静謐さを超えた世界は、以前に見た岡鹿之助の回顧展 でも感じたことです。
ただ、ハンマースホイの場合は岡ほどの色彩がない分、やり場のない「重たさ」もあります。
北欧の気候ゆえということもあるのでしょうね。
「動的」なものの場合、はっきりとそこから伝わるものがあるようにも思いますけれど、
このような「静的」な世界を目の当たりにすると、そこに封じ込められたストーリーのようなものを
また紡いでしまいたくなりますね。

