やっぱりどうしても「片手落ち」かなっと思って…
というのは、ジョルジュ・シムノン を読みながら、
メグレ警視を知らずおいては…ということです。
そこで、近くの図書館で手近に借りられる「メグレもの」を手にとってみました。
題して、「メグレと若い女の死」というもの。
なんだかなぁ…というタイトルではありましたけれど。
ミステリのシリーズでは、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロ 、そしてエラリー・クィーン などのように普通は気のつかないようなことに「瞳をキラリ」とさせてしまって、「おお、そんなことが?!」といった結末に導く探偵たちに目が行ってしまいがちです。
では、メグレ警視とはどんな探偵だったのか?
数あるシリーズの中の1冊を読んだくらいで語るのはおこがましいですから、
まずはあとがきから引用してみますと、
シムノンのデビュー当時は、本格物全盛のころで、このムード心理探偵小説が新しかったし、大きな特徴になったのである。
ということで、メグレ警視ものというのは、
どうやら「ムード心理探偵小説」ということになるようです。
「ムード」という言葉がまた「なんだかなぁ…」ではありますけれど、
ようは小説における心理描写のようなものがあるミステリということになるのでしょうか。
ただ、本書を読む限りではまた、それとも印象はことなるのですね。
さきに読んだロマン「ちびの聖者」のような、パリとそこに生きる人たちの息遣いが感じられる
という点では、そうかなと思わなくもないですが、
探偵小説として見た場合には、とにかく先が見えない中で
一所懸命捜査が行われていくさまが描かれるといったらよいでしょうか。
先に名前を挙げた「名探偵」たちのきらめきのようなものを感じることはできません。
ただ、それがマイナス要素と感じられないところが、シムノンの小説巧者たる由縁かもしれません。
ではでは、改めてメグレ警視とはどんな探偵なのか?
wikipediaによれば
「犯罪者に対しての悲しみ、怒り、慈しみから「運命の修理人」と呼ばれる」のだそうなのですけれど、
本書ではむしろロニョンという刑事(日本で言えば本庁でなくて、所轄の刑事なのでしょう)の、
報われなさが哀れを誘います。
この辺の感覚は、偏に日本人的感性かもしれないですが・・・
ひたすら足で稼ぐ、古いタイプの刑事像がロニョンから浮かびますが、時に独断専行、
メグレ警視への報告もなしに突き進むことがあって、警視の側からすると、
「最終的に手柄を本庁に持っていかれる所轄の僻み」ということになるようですが、
「踊る大捜査線」に心動かされてしまう(?)日本人なら、そうは思えないところではないかなと。
と、分かったような分からないようなことを書いてきましたが、
wikiにあるような創作当初のメグレ像は、もっともっと初期作でないと味わえないのかもしれません。
ちなみに、本書の残念なところを敢えて言ってしまいますが、
訳文のこなれの悪さと校正ミスと思しき点が残されていることには辟易。
具体的には、「マルティニ(マティーニですね)は、ジンとベルモントで作る」とは?!
マティーニは、ジンとベルモットで作るんですよね!
ベルモントじゃ、トマト・ジュースじゃないんだから。
このあたり、ミステリとしては致命的な雰囲気ぶち壊しですよねえ。