読む本は、興味つながりでどんどんと
「次はこんなの」と掘り出していく一方、
新聞の書評欄で「もしかして、これは面白いかも」と思われたものを
チョイスすることが結構あるのですね。
そうすることによって、新たな興味が引き出されたりすることが
ままあるからなのですけれど、
こと小説に限っていえば、どうやらそうとばかりも言えないようです。
ひとえに個人的な趣味嗜好とのマッチ度合いですから、
皆さんに「そうでしょ、そうでしょ」と言えるものではありませんが。
で、この古川日出男さんの「ハル、ハル、ハル」もそんな一冊。
書評の惹句からして、「マジやばいっすよ、この小説は」となっていて、
釣られて、ついつい手にしてしまうではありませんか。(単純すぎ…)
実験的な小説とか言ってしまいますと、「それまでよ」的な印象になってしまうのですけれど、
文章が言葉、単語、あるいは一音、一音に解体していくのですね。
ある種、話し言葉以上とも思われます。
このあたりのことを、書評子はこのように紹介していました。
この小説は呼吸と脈拍に影響が出る。それはこの本が読者に「走る」ことを強要するからだ。…言葉って、切羽詰まると解体されて文章の体をなさなくなるのね。だから読んでる人の息もあがる。
個人的には残念ながら少々おっとりしすぎなのか、
すぅ~と読み終えたときには「併走感」を意識しないままであったと気づいたのでありました。
ただ、併録された中編「スローモーション」を読んでいるときに、
「おや?!」と思ったことがあったのですね。
書き手の「あたし」に言わせれば、最初から「日記」だと言いきっています。
そして、読み手は「あなた」なのだと。「あなたたち」ではない、「あなた」。
この違いを「あたし」は、ブログのような不特定多数に向けたものではないと説明しています。
対象が不特定多数でないのだとすると、特定された少数、否、特定の一人、
それが「あなた」ということになりますね。(いわでもがなですが…)
ところが、実際に本書を手にした自分は、
日記の読み手として想定された「あなた」であるわけがありませんから、
この日記的な小説の(登場しない)登場人物としての「あなた」の存在をイメージすることになります。
が、読みことによっておよそ情報は得られません。
おそらく、「あたし」にとって特別な人なんだろうなあ…ということくらいしか。
そうはいっても、これはテクニカルな読み方の問題であって、
「あなた」はシンプルに一人ひとりの読者であると考えてしまうことも可能ですね。
これを読んでいる時において、「あなた(=読んでいる自分)」は不特定多数ではなくなりますし。
無理無理、答えを探ろうとすると
「読み方は人それぞれだし、どうでもいいのかな」と思ってしまいますけれど。
本書の最後には著者自身の言葉で、こんなことが書いてあります。
二〇〇五年十一月から僕は完全に新しい階梯に入った。…その階梯の第一作として書き綴り、発表したのが中編「ハル、ハル、ハル」だとも言い切っておこう。意図したのは“生きている文章”であり、はっきりした“世間との対決姿勢”だ。小説は世間なんぞに吸収されるものではない。小説のリアリティこそが、虚構としての世間を咬む。
はて、2005年11月より前の古川さんは、どんな小説を書いていたのでありましょう。
