私たちの誰にも存在する恐怖の悪魔に対し、ゴヤは並外れて敏感だった。〔アンドレ・マルロー〕
やっぱりゴヤを扱った映画 を見たからには、フランシスコ・デ・ゴヤを探究しておかねばと思ったのですね。
実を言うと、それほどたくさんゴヤの絵を見たという記憶はありませんし、
それ故かもしれませんが、決して好みというわけですけれど、
でもまあ、それはそれとして「ラファエル前派」を食わず嫌いしていたら、
思いのほか「ミレイ」展
が素晴らしかった…というようなこともありますし。
1746年、サラゴサの近郊に生まれたゴヤは14歳から地元の画塾で修業に励んだのち、
17歳でマドリードに出ますが、どうも芽が出ないようなのでした。
1770年、24歳のときにイタリア修業にでかけ、
翌年パルマのアカデミーのコンクールで特別な評価を得たことが自信につながったのか、
スペインに戻り、画家としての地歩を固めていくことになります。
タペストリーの原画の仕事でだんだんと注目されるようになっていき、
やがて王室から原画の注文が入るようにもなるのですね。
この頃の油彩は修業時代の初期のもの同様に、宗教題材のものが多いようですけれど、
1780年、マドリードの王立美術アカデミーに会員として迎えられた後には
王侯貴族の肖像画が量産されるようになっていくわけです。
そして1789年、贔屓を得ていた皇太子がカルロス4世として王位につくと、
ゴヤは宮廷画家に任命されるのでした。
このことはゴヤにとって大いに励みになったことでしょうけれど、
1789年という年は、フランス革命が起こるわけですね。
宮廷画家としての名誉と収入(?)を得て、さらに肖像画の注文も入るわけですが、
一方で、ゴヤはこんな絵も描いています。
洒落た服を着た女性たちがトランポリンのようにして、ひとりの人物を宙に舞わせていますよね。
でも、この宙を舞っている人の手はだらりとして、両足はねじくれ、「変だな!」と思ったら、
実は藁人形だというのでした。タイトルもそのまんま「藁人形遊び」、1791-92年頃の作品です。
宮廷画家としての地位は王侯貴族の側にあってこそ約束されるものでしょうけれど、
一見貴族の令嬢たちが「藁人形遊び」に興じる姿を描いたようでいて、
藁人形に民衆の姿を仮託して、王侯貴族に運命を委ねざるを得ない様と描いたとみると
ゴヤの「何もの?」性が浮かびあがってきます。
その後の連作版画集「気まぐれ(ロス・カプリチョス)」が
映画「宮廷画家ゴヤは見た」の冒頭シーンに登場するように、
ありのままの世情を寓意に託した作品群は、「反体制」と捉えられても不思議でないわけですね。
ここで気にしておきたいのが、最初に引用したマルローの言葉です。
ゴヤの感性をこのように見たとき、
王侯の肖像を描く宮廷画家とありのままの世の中を描く反骨の画家との二面性は
無理やり説明しなくても同居できてしまうものなのかなと、思えたりもします。
実際のゴヤは、相当に啓蒙主義的であったと言いますし、風刺の精神にも富んでいたということですから、
本性は「反骨の画家」であって、画家としての活動をするためには宮廷画家の仮面をかぶる必要があった・・・という解釈もできるのでしょう。
もちろん、若い頃はそんなことまで考えずに、
単に画家としての成功、名誉、地位、収入を目指していたかもしれませんが。
そんなふうに見てきますと、この「火事」(1793-94年)という作品も
サラゴサのコロセウム劇場の火事から着想して、大火の恐怖を描いたと言われるものの
むしろ光が閉ざされていくことへの民衆の慄くさまを象徴しているように思えてくるのですね。

