ほとんどきっちりした計画を立てないで旅してることは、
「旅の発端」編 でも書きましたけれど、
当日になってぼんやりしていては、さすがに刻々と時間が過ぎてしまうだけですから、
せめて前の日の晩に、いろんなオプションをインプットしておくわけです。
あれこれ調べているうちに急浮上したのが、アサヒビール大山崎山荘美術館というところ。
でも、場所が京都府!と知るに及んで、「おお、京都に行ってしまうかぁ!」と。
さらにあれこれすると、京都駅にある美術館では
「ピサロ展」をやっているではありませんか。
というわけで、大阪・神戸と思っていた今回の旅に、やおら京都が入り込んだ瞬間でありました。
ということで、二日目(9月14日)は、朝から阪急京都線に乗り込んだわけです。
電車が大山崎駅に入ろうとするその時ですが、左手の窓外に
「サントリー山崎ディスティラリー」の文字が!
サントリーのウィスキー「山崎」。あの蒸留所のある、山崎だったのか・・・。
たどりつくまで、ちいとも気が付かなかったのですね。
かなり、興味のそそられるものではありましたが、今回は美術館紀行と決めていますから!
目指すはアサヒビールの方です。(結局、お酒がらみ・・・)
下車して少々びっくりしたのは、山歩きスタイルの方がなんだか多いなということ。
これも全然気づいていなかったのですけれど、山崎といえば
秀吉と光秀の合戦の場所。天王山なのですねえ。(天保山じゃない)
ここがハイキング・コースになっているらしく、めざせ天王山の方々だったのでしょう。
山荘美術館の名前は伊達ではなくって、
しばし天王山ハイクの方々と同じ道を登っていくことに。
これが、結構な勾配なのでありました。
ここは元々、明治期の実業家であった加賀正太郎という人の
山荘だったらしいのですね。
ところが、時を経て荒廃が激しくなったのを見かねた方々の声を酌んだ京都府がアサヒビールに援助協力を要請して、再興されたそうです。
その際、山荘の修復と同時に新館建設に携わったのが
安藤忠雄さん。
ありのままの自然と山荘の景観を壊すことがないようにとの配慮から、
コンクリート打ちっぱなしの新館は、山荘手前斜面の地下にあります。
ただ、これを称して「地中の宝石箱」とまで言われてしまうと
気恥ずかしくなってしまうような・・・。
とまあ、そうした山荘美術館では、「青のコレクション」展が開催中でした。
アサヒビール・カラーの「青」をテーマにしたコレクション展ということですけれど、
あらためて見てみると、青は青でまったくもって多彩な色合いが見られるものだなと。
山荘部分の旧館には、日本の書画、工芸品が、新館には西洋絵画が展示されていました。
このコンクリート剥き出しのひんやりした地下空間である新館。
ここの展示作品は、(気恥ずかしくなると言いましたが)宝石箱のような素敵なものでしたね、実際。
まずもって目を奪われたのは、シニャックの「ヴェネツィア」(1908年)です。
これは、シニャックらしい粒の大きな点描を離れて見たときの混ざりあい具合が絶妙です。
とりわけ、くっきりした色を使われてしまうと
くどさを感じることもあるシニャックですけれど、
ここでの微妙な色合いには息を飲むばかり。
近くで見た海の部分は、とても海とは思われない色たちなのですがねえ。
そして、マッジョーレ教会の鐘楼に見られるピンクは、
凡人には及びもつかないものなのでした。
そして、円筒形の展示室の壁面の多くを覆っているのが、モネの「睡蓮」。
実は、モネの絵の中で、「睡蓮」のシリーズは「なんだかなあ…」っていつも思っていました。
実験的に光の具合やら、水面の揺らぎやら、あらゆるものを描き出そうとしていたのかな
とは思うものの、「でもなあ…」と思っていたわけです。
ところが、ここで見た何枚か「睡蓮」は、くくっと食い込んできてしまったのですね。
1914~1917年頃の作品。
本物は、オランジェリーにあるような、
縦2mもある、大きなキャンバスに描かれているだけに、
この小さな画像ではさびしすぎるところですけれど、
黄色い花のアクセントには、
目が釘付けになってしまいます。
27年にもわたって、200点以上描かれたというモネの「睡蓮」。
これまではいろんなところで目にするたびに、
もやっと感が必ず付いてまわっていましたが、
ここへ来てようやく「晴れた!」気がしたのでありました。
これなら、オランジェリーに行くのも楽しみにできるかな…と。
(いったい、いつ行けるか分かりませんが)
山荘の周囲にある庭園には、実際に睡蓮のある池があって、白い花を咲かせていました。
元の持ち主、加賀正太郎が見渡す景観の故に選んだ場所は、
天王山宝積寺という古刹に隣接しているとのことで、
その贅沢を友人の夏目漱石は、こんな句に読んでいます。
宝寺の隣に住んで桜哉
加賀と漱石の交友は、遠慮のない間柄だったのでしょうか。
そもそも山荘を建てるにあたって、加賀は漱石に山荘に名をつけて欲しいと頼んだようですが、
加賀は漱石の付けた名を採用しなかったそうです。
いったい漱石はどんな名前を提案したのだろうか…
「山路を下り(!)ながら、こう考えた」のでありました。



