森 鴎外「舞姫」
中学だか高校だったか、森鴎外の「舞姫」に初めて触れたのは、

国語の教科書だったと思います。

それ以来何年経ったものやら…ではありますけれど、

鴎外がここで「舞姫」を書いたのですよという部屋を訪れた からには

これを機会に再読をと思ったわけです。


読み始めて、何よりまず思いを致すのは、

高橋義孝さんが「すなわち近代的な内容と漢文調と和文調とを巧みにないまぜた斬新な雅文体との組合せ」と解説しているとおりの、文章の魅力でしょうか。


例えば、こんなところはどうでしょう。


嗚呼、委くここに写さんも要なけれど、余が彼を愛づる心の俄に強くなりて、遂に離れ難き中となりしは此折なりき。我一身の大事は前に横りて、洵に危急存亡の秋なるに、この行ありしをあやしみ、又た誹る人もあるべけれど、余がエリスを愛する情は、始めて相見し時よりあさくはあらぬに、いま我数寄を憐み、又別離を悲みて伏したる面に、鬢の毛の解けてかかりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄を射て、恍惚の間にここに及びしを奈何にせむ。

これを、つたなくも今風にしてしまうと、


詳しく語るまでもないけれど、僕が彼女を愛する気持ちが突然高まって、ついに離れることさえできない関係に立ち至ったのは、この時であった。僕の人生の、ターニングポイントが目の前にあって、これをものにできるかどうかという瀬戸際だっただけに、僕のふるまいをいぶかったり、また避難する人たちもあったが、僕のエリスへの愛は、お互い初めて出会ったときにも心に響いていたのであって、今や僕の境遇に降りかかるあれこれを嘆きもし、別れの予感に打ち震えるエリスの面持ちに、その髪が解けかかった様子は美しくもいじらしい姿と見え、僕自身、あまりの悲しみに胸を打たれ、呆然としながらも、このような状況にまで至ってしまったことを如何ともしがたいのであった。

とまあ、こんなふうになってしまうわけでして、とてもとても鴎外の「雅文体」とは比ぶべくもないわけです。


ところが、これはあくまで小説なのでして、

実際に鴎外がベルリンから帰朝後、エリスにあたるドイツ人女性が日本にまで追いかけてきたところ、

鴎外はいっかな会わずに、妹婿が説得にあたって帰らせたというようなエピソードを知ってしまうと

「舞姫」の「舞姫」たる世界が、がらがらと崩れ落ちてくる気もするのですね。

鴎外も悪いやつだなと思いもし、またエリスも薄幸の美少女というだけでないものがあったのかと。


ところで、本文の中で、エリスとの愛を引き裂く悪役を負わされているのが、相沢謙吉という人物。

豊太郎(森林太郎のことですね)のためを思えばこそ、ベルリンでエリスとの愛を貫くよりも、

天方伯(元老・山縣有朋)に仕えて、近代日本に奉仕することが男子の本懐であることを説く

豊太郎の友人なのですが、小説はその最後でこのように言っています。

嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり。

その後のエピソードを知っていると、これでは尻切れトンボのように思えなくもありませんが、

ここで終って醸す余韻こそ、小説なんでしょうなあ。

「ああ、相沢の言に従って、よかった。あいつは誠に良い友人だ」と冷静に考える反面、

エリスとの仲を裂いたのは、紛れもなく相沢だという思いも拭いきれない。


しかしながら、この相沢謙吉が架空の人物であるばかりか、鴎外の「「心の声」を仮託したものであると

知ってしまったとたん、またしても「がらがらがら!」という瓦解の音が聴こえてきそうなのは、

決して個人的な感想ではありますまい。


文学を楽しむのは、研究とは違うわけですが、

楽しみを深めようとすると、いろんなことを知りたくもなり、調べてみたくもなり・・・。

ただ、作品はあくまで作品として楽しむということも忘れてはいけないことなのでしょうね、きっと。