シュルレアリストと私の唯一の違いは、私こそがシュルレアリストであることだ。
こんなことを言ってはばからないサルヴァドール・ダリですけれど、
本人のみで「ダリ」が完成したわけではないのですよね。
いろいろな人たちから影響を受けていたりするわけです。
そりゃあ、印象派からもキュビスムからも・・・と言えば、そのとおりですけれど、
そういうのとはちょっと違うところからも、あれこれと・・・。
これは、ダリが21歳頃の「窓辺の女(窓辺に立つ若い娘)」(1925年)という作品です。
ダリを見る度に「絵が巧いなぁ」と思うのは、ひとえに写実的な側面においてであって、
この絵などは「まさに!」なのですね。
この、ともすると雰囲気的にアンドリュー・ワイエスを彷彿させる絵も
ダリ的に言ってしまうと、「背中とお尻に感心があるから、こういう絵を描いた」
ということになってしまうかもしれません。
後に、生涯のかけがえのない伴侶となるガラとの出会いにも、ダリはこんなことを言っています。
彼女の体つきはまだ子供のように見えた。肩甲骨や腰の筋肉は若々しく、意外に張りつめていた。一方、背中のくぼみは際立って女らしく、彼女の個性的で生気あふれる堂々と引き締まった胴体と、非常に優美な臀部をこのうえなくしなやかに結びつけていた。その臀部は極端にほ染まった腰のくびれによって引き立ち、私を一層魅了した。
ガラに出会う以前からの性向が、彼女との出会いで開花したということもありましょう、きっと。
「背中とお尻」だけのことでは、もちろんないでしょうけれど。
もう一人は、意外なことにジャン・フランソワ・ミレーなのですね。
作風も何もかけ離れた感のあるミレーの「晩鐘」をモティーフにして、
ダリはいくつも作品を制作しています。
代表的なのは、この「ミレーの『晩鐘』の考古学的回想」(1935年)でしょうか。
柔らかい、ぐんにゃりしたものがたくさん登場するダリの絵画世界の中では、
かなりカッチリした方だと思うのですけれど、それが「晩鐘」同様に夕暮れらしき風景の中で、
なかなか琴線を揺さぶってくる作品ですよね。
ダリは、ミレーの「晩鐘」を賞賛していたのだそうで、
自分なりの解釈であれこれ試行錯誤をしたのだそうです。
また別の一人は、ジグムント・フロイトです。
こちらは何となく想定の範囲内かなとも思えますけれど、
関わりのキーワードは引き出し。
ダリ作品のあちこちに、引き出しが出てくることはご存じのことと思います。
例えば、こんなふうに。
これは、この間、諸橋近代美術館で見てきた 彫刻作品で
「引き出しのあるミロのヴィーナス」(1936年)ですけれど、
ほんの一例にすぎないのですね。
ダリはフロイトに関して、こんな発言を残しています。
永遠のギリシャと現代の唯一の違いはジグムント・フロイトである。彼は、ギリシャ時代には完全に新プラトン的だった人間の肉体が、今日では精神分析でなければ開くことのできない、物のつまった引き出しに成り果てたということを発見した。
やがて、型にはまらないダリの自由なふるまいに業を煮やしたシュルレリストたちは、
ダリをグループから遠ざけようとしますが、
逆にダリはフロイトの主張を引用して、こう言い放ちます。
ヒーローとは父親の権威に反抗し、それに打ち勝つ者である。
シュルレアリストのグループからどう扱われようとも、
ダリは自分の選びとった方向に向かって邁進していきますけれど、
若き日には確実に影響を及ぼした人たちの存在がありました。
その中で、ただ一人、妻ガラのみは最後の最後まで、ダリに寄り添い、
その後の大作のモデルにもなっていきます。



