チェーホフの芝居は、前に一度「桜の園」を見たことがあるだけで、
およそ知らないのですね。
もっとも、チェーホフ自体をよく知らないわけでして、ロシアというと、
どうしてもドストエフスキーのような長大な作品を思い浮かべこそすれ、
戯曲や短編小説を読んだりということがなかったものですから。
そして、チェーホフはまさに、戯曲や短編小説の作家なわけです。
それが、たまたま先日、黒川創さんの「かもめの日」を読んだ ものですから、
モティーフとなっている「私はかもめ」はもちろん、
史上初の女性宇宙飛行士テレシコワの言葉ではありますけれど、
チェーホフの「かもめ」に関わる言葉であることは間違いないわけでなので、
トライしてみたのでありました。
一読して、なんとまあ、エゴイスティックな人たちを並べたことか!と思ったわけです。
ところが、本編を読了後、英語版の台本を作った演出家マイケル・フレインさんの
「『かもめ』について」と題する一文を読んで、いろいろな違和感の一部がぬぐわれる思いがしたものですから、
もう一度読んでみて、「なるほど」と思ったり、「やっぱり不明だな」と思ったりしたのでした。
恋愛ものの芝居と言えないこともない。
実際、登場人物たちの相関で見ても、メドヴェジェンコはマーシャを愛し、マーシャはトレープレフを愛し、
トレープレフはニーナを愛し、ニーナはトリゴーリンを愛し、トリゴーリンはアルカージナを愛している・・・
わけです。
しかし、やっかいなのは、マイケル・フレインが言うように、
(それぞれが誰かを)愛していることになっているが、実はだれも、自分自身さえも、愛していない。
というやっかいさが潜在しているのですね。
それでは物語にならないではないか?とも思ってしまいそうですが、
実は、創作に見られるリアルさというのは、この辺にあったりするのかもしれないなと思うのでした。
現実ばなれした話には、現実にありっこないものとして、
あくまで想像の産物として「楽しむ」ことができるのに対して、
リアルな話というのは、人間が持っている特異な部分を(程度の差こそあれ)取り出して、
デフォルメしてみせるところがあるわけです。
つまり、リアルな話も実際は、本当の意味でリアルではないのですけれど、
本当の本当らしくすると、劇作世界ではむしろ「違和感」を抱いてしまうものなのかもしれないと思ったのでした。
改めて、それぞれの登場人物のキャラクターを思い返してみると、
尚のことそんな気持ちが鮮明になってくるわけです。
悩める青年トレープレフが恋い焦がれるニーナに対して、こんな台詞を吐きます。
きみは自分の道を見つけたんだね・・・どこへ行くかもわかってるんだ。ぼくのほうはまだ、夢と幻影のカオスの世界をさまよい、それがだれのために、なんのために必要なのかもわからないままだ。信念はもってないし、自分の天職がなんであるかもいまだにわからないでいる。
少なくとも、劇作の世界ではもっと別なことで悩んでよね!と思ったりしてしまいますし、
筋のとおった話、筋のとおった展開を求めるところではありますけれど、
本当の現実世界では、ささいなことでも悩むし、
例えば、天職を見つけられない人なんてごろごろいるのですよ。
そうしたリアリティの考え方に立ち返って読んでみると、
そこらへんを取り出したチェーホフの凄さに気が付けるのかもしれない・・・
ま、最初のチェーホフ体験はこんなところでしょうか。