ことさらルオーが好きなわけではないですけれど、やっぱり展覧会でじっくり見る と気になるもので、
近所の図書館にある大型本などをパラパラめくって、「なるほどなあ」と思ったりしたわけです。
フォーヴィストでもなければキュビストでもなく、抽象美術とはいっさい縁がなかった。彼は、前衛芸術に直接的な役割を果たしたグループの一員でもなく、むしろそれを独自に展開した。一般に言われる“表現主義者”というレッテルも、彼にはまったくふさわしくない。
では、ルオーって?
さまざまな技法や潮流の中にあって、他者との比較によって自分を浮き立たせる
といったあざとさがあるわけでもなく、自分の信じたとおりに進んだ・・・というのが、ルオーなんでしょう。
そうはいっても、やはり個の確立期においてはレンブラントに擬えられることもあったわけですし、
エコール・デ・ボザールのギュスターヴ・モロー先生の影響は大きかったのですよね。
これは、1894年にシュナヴァール賞を受賞した、若きルオーの作品「博士たちの間の幼子キリスト」です。
後のルオーは、またかけらも現れていませんが、モローっぽさは感じられそうです。
もっとも、テーマは聖書からのもので、ルオーらしいともいえますが、
当時のアカデミズムは宗教画、歴史画ですものね。
これだけ描けても、ローマ賞には二度落選。
ここで、声をかけてくるのが、師モロー。もはや、やめてはどうかと。
かつて、モロー自身が敬愛するドラクロワから言われたのと同じ ように。
ただ、それにしても、立派な先生ですよね。
ルオーの回想によると、師モローはこんなことを言ったそうです。
…私には君がますます孤立していく様が浮かぶよ。君の好むところは荘重で、真摯な芸術だ。宗教的なものには、その要素がある。
アカデミズムから離れて独自の世界を創り出すときに、ルオーは題材の多くを作りだすときに
ルオーは宗教画を選ぶわけですけれど、ルオー自身に素地があったことは間違いないとしても、
慕ってやまない師モローのひと言は、後あとまで心に刻まれたのではないでしょうか。
しかし、1898年にモローが亡くなると、
ルオーに変化が訪れます。
「水彩の時代」というべき、
これまでともその後とも異なる絵画となっていきました。
これは、ポンピドゥー・センターにある
「鏡の前の娼婦」(1906年)です。
ちょっと前に松下電工汐留ミュージアムの
「ルオーとマティス」展にも出ていたと思いますが、
浅薄な知識しか持ち合わせていないだけに、
「これが、ルオー?」と思ったものです。
画風があれこれ変わったことでは、
ピカソなんかも極端な例ですけれど、
画家それぞれに独自の世界は「一日してならず」ですね。
こののち、ルオーは油絵に帰ってきて、
こないだ見てきた「小さな女曲馬師」(1925年頃)のように、
塗っては削り、削っては塗りの結果、雲母のようなきらめきを見せるようになっていきます。
ところが、このスクレイパーを使う手法は制作に時間がかかるわけですね。
もちろん、ルオー自身はそんなことに頓着はしていなかったと思いますけれど、
アンドレ・シュアレスの宗教詩「受難(パッション)」の挿絵のシリーズ画を描く際に、
画商ヴォラールに唆されて?速くたくさんの絵を制作するために、この雲母のきらめきを放棄したとか。
ところが、そこいらあたりから、
例の厚塗りに至る萌芽が見えてくるのですから、
不思議なものです。
これもポンピドゥー・センターにある「磔刑図」ですけれど、
1952年から1956年にかけて描かれたといいますから
最晩年の作品です。
画像で見ても、表面のでこぼこが分かるくらいですから
実物はさぞかしと思えますね。
これが、ルオーがたどりついた世界なのですね。


