先に原作の小説で読んで 、
この話をどんなふうに映画化したのだろうか
ということに興味が湧いたものですから見てみたのですけれど、
なるほどねえという感じではありました。
この「アヒルと鴨のコインロッカー」、
読んだり見たりした人が多いだろうとは想像するものの、
ネタばれを避けようとすると、コメントしづらいわけなのですが、
映画は映画として割り切ってしまえば、面白く作られていたかなとは思います。
原作が、描写にしても人物造形にしても、
読み手の想像力を掻き立ててくれるようなものの場合、
映像化されることによって、これはこれ、あれはあれ、と決め打ちされることによって
なんだかイメージが矮小化されてしまいかねないところがあるわけですよね。
回りくどい言い方をしましたけれど、例えばこういうことです。
冒険譚を語る小説の中で、
ジャングルを分け入った探検隊がふっと森から抜け出した目の前に深い渓谷が開け、
先にはもうもうと飛沫を上げた巨大な滝を見出したとしましょう。
この冒険小説の書き手としては、その滝の雄大さを語り、
これから待ち受ける困難を予測させることまで含めて、言葉を尽くして読者に語るわけです。
それが巧みであればあるほど、読者の頭の中にはその読者が思い描ける限りの雄大さで
滝の様子を思い浮かべ、こりゃあこの先大変だと思うところです。
これを映画にした場合、おそらくは「読者が思い描ける限りの雄大な滝」のイメージを
遥かに凌ぐ様子を映像で見せてくれるはずです。
飛び散り、霧のように湧き上がった水しぶき。
耳を聾するばかりの、水の落下音。
目も眩むほどの高さ。
圧倒的な水量。
どれをとっても想像以上で、「小説の映画化」のレゾンデートルを思い知らされます。
この点で、インディ・ジョーンズではないですが、
冒険ものは映画と相性がいいのですけれど、映画の持つ力はそればかりではないですよね。
もひとつの例えば、登場人物の感情、心理の機微を文章化している小説などは
映画化する場合、脚本や監督の腕の見せ所なわけです。
チープな例を出すと、
自分の心の中まで覗き込まれるような気がして、光治は優子の視線を受け止めきれなかった。光治は自分の中に、今はまだ優子に知られたくないことがあると気づいたのは、その時が初めてであった。
というようなセリフ無しの文章が語ろうとしていること(読者が想像をめぐらそうとすること)を、
映画が登場人物の表情やしぐさで表現するとすれば、
それはそれでかなり雄弁なものになるだろうと思うのですね。
とまあ、「アヒルと鴨のコインロッカー」から、ずいぶん話が飛躍してしまいました…