「わかる」「わからない」ということは、とかく何事にもあるわけでして、
美術にも、音楽にも、そして文学にもあるわけです。
例えば美術でいえば、かつて絵を見る際に「わかる」「わからない」をもの差しにしてしまっていた時期があって、
そういうもの差しで見る限り、キュビスムもシュルレアリスムも、ましてや抽象絵画などお手上げになります。
でも、あるときから(適切なというか、正攻法な見方かどうかは別として)もっと感覚的に見てもいいのかな・・・
と思ってしまうと、楽しめる絵の範囲がぐんと広がったのですね。
音楽という別の世界でも、「わかる」「わからない」を気にした時期がありました。
もっとも、こちらは今でもわからない世界が残されていますけれど、
それでも、かつてはマーラーもストラヴィンスキーもバルトークも、
音を楽しむ(いわゆる音楽)こととはちいとも結びつかない世界だったわけです。
こちらの方は、ひらめき的なものよりも、慣れが勝っているかもしれませんが、
束の間の、琴線に触れるメロディを見出したことで、
結果全曲を聴くというふうにつながっていったものも多々あります。
では、文学はどうかというと、音楽に近いところがあるのかもしれませんね。
音楽は時間芸術と言われますが、文学作品も「読む=時間が流れる」という点で近いのではと思います。
仮に絵を見て、「これは、わからん」とか「合わないな」と思ったら、
別の作品に目を移せばいいのですけれど、
例えば演奏会場で「この音楽、わからん」と思っても、
どこかで素敵なメロディが出てくるかもしれんと思えば
最後までつい聴いてしまう(その場に居続けてしまう・・・の方が正しいか)ことになります。
文学作品でも、「これは、わからん」と思っても、
もう少し読めば、「食いついてくるかも」とか「素敵な描写に出会うかも」と思うと
なかなか中途で投げ出すのに、気が引ける場合があるわけなのです。
で、結局「う~む~」と思いながら、しばらく読みすすめ(といっても、ちいとも頭に入らない)、
結果「こりゃあ、途中放棄やむなし」に至るまで悪戦苦闘することにもなります。
さる書評子の誉め言葉につられて手にした、円城 塔さんの「オブ・ザ・ベースポール」はかなり難儀を強いられた読書であったなと思うのでありました。
かつて映画を見る際に、「アカデミー賞作品と違って、カンヌ映画祭で評価されたのはどうにもついていけん」という感覚がありましたけれど(今はそうでもない)、
文学で言えば「芥川賞の関連はどうも・・・」というのがありました。
そんなに読んだことがあるわけではないので、
食わず嫌い的なところはあるにせよ、たまに今回のような作品に出会って、
「ああ、芥川賞候補だったか・・・」てなことを思うと、
なんだか「やっぱりな」という気がしてしまいます。
およそ年に一度、空から人が降ってくるという田舎町。
そこには、「レスキュー隊」と称する組織があって、隊員に支給されるのはユニフォームとバット。
タイトルからしても、思い浮かべるのは野球ですし、
雰囲気的には、「フィールド・オブ・ドリームス」、「シューレス・ジョー」、そしてサリンジャーだったりします。
いつ降ってくるかわからない人をいち早く発見せんがために、
レスキュー隊の面々は常に空を見上げています。
そして、発見した暁には支給されたバットで、落ちてきた人を空に打ち返すという役割だとなると、
「?」がいくつあっても足りなくなるのですね。
それでも、何らか物語的な展開があれば、それなりについていきやすいのですが、
淡々としてストーリーは大きく動きはしない。
これを読み続けることは、読み手としては「何かの修行か?」と思ってしまいそうです。
併録された「つぎの読者につづく」は、さらに修行度合が増すわけですけれど、
先の書評子曰く「手の込んだ意欲作で、大いにうけた。熱烈なファンがつきそう」とのこと。
前に読んだ福永 信さんの「コップとコッペパンとペン」 で感じた新しさとはまた別の印象ながら、
やはり書評子の言うように「前衛小説」というカテゴリーは、確かにあるのだなということは分かったのでした。