「ヴェニスに死す」 映画版「ベニスに死す」を見た のも何かの機会ですので、

トーマス・マンの原作「ヴェニスに死す」を読んでみることにしたのでした。


たまたま手にしたのが岩波文庫。

読み始めて、まず思ったのが、「何て、読みにくい!」。

実際ちいとも進まないわけです。


先日、モームの「月と六ペンス」を読んだときに、

名作文学でも読みやすい訳というのはあるものだと思いましたし、

世の中でも光文社の古典新訳文庫がもてはやされるご時世ですから、

いくら「定番」であっても、今となってはなかなか受け付けにくいものもあるのだろうと思ったわけです。


手にした岩波文庫というのが、初版1939年の発行で、

その後、刷りは重ねているものの、ようするに戦前の訳業を今に伝えるという、

言わば研究書のような存在なわけです。


そうは言っても、古えの大学生が外国文化に触れるときには、

こういった訳書がバイブルのようなものだったのでしょうから、

それに付いていきにくいとすると、個人的にはいささか劣等感に苛まれたりもするわけです。


実際、解説によれば「名訳の誉れ高い」といったことがことが書かれているわけです。

ドイツ文学の何たるかを、この岩波の訳で知って、その後作家になり、研究者になりした人が多かろうと。


ただ、日本の近代文学でも読みにくいものは読みにくいわけで、

これは漢語の多さ、平たく言えば漢字の多さ、熟語の多さということでしょうか。

江戸期の教養人には、漢籍の素読は当たり前のことだったでしょうから、

明治期に至って、江戸期の教養人のなごりから作家とか、研究者が出てきたとすれば、

漢籍に比べれば「読みやすい」ものだったのかもしれません。

(と、何気に現代人であることをアピールしているのではありませんが・・・)


とまあ、前置きが長くなりましたけれど、

この「ヴェニスに死す」は映画に比べて深みを感じたということはありましたね。

映画がストレートに映像で頭に入ってくるのに比べて、

文学ではひとつのシーンを描くのに、実に多くの言葉を費やしているわけです。

そうでなくても、「行間を読む」という言葉があるように、深読みしうる要素があるのですね。


例えば、浜辺での戯れのさなか、タッジオに友達がキスをするシーンがあります。

これを書き言葉で「接吻した」と言われると、「・・・」という余韻があるわけですが、

映画では時間の流れで、すぐ次のシーンに行ってしまうわけです。


必ずしもどちらが良い悪いではありませんけれど、

映画と文学の語法の違いというようなものが、極めて強く感じられたのでありました。