音楽(といっても、クラシック音楽)で「現代音楽」というジャンル分けがあります。

もともと、メロディやハーモニーの美しさこそが音楽であったろうと思うのですけれど、

音の羅列である「音楽」が技法的に進化(?)を遂げていくと、

それまで使われていた音楽語法からすれば、掟破りと思われるような曲作りをする人たちが出てきたのですね。


ところが、そこに聴かれる「音楽」は実験的なあまり、

一般人が音楽として許容できる範囲を遥かに超えてしまい、大衆化することはありませんでした。


その点、美術の方は、同時代的な評価は得られなくとも、

例えば「印象派」にしても「フォーヴィスム」や「キュビスム」、そして「シュルレアリスム」にしても

後から見る側も追い付いて、大衆化してきたという歴史がありますから、

今でいう「現代アート」にしても、音楽でいう「現代音楽」よりは充分に許容されているものと思います。


では、文学の世界ではどうでしょう。

小説においては、「一貫した物語の流れがある」ことが前提のはずですから、

技巧的な展開は、むしろ詩作(革新的な俳句や短歌なども同様に)の世界にこそあったのではないでしょうか。


もちろん実験的な小説というものは多々あったのでしょうけれど、

たいていの場合、物語の流れは保持されていたのではないでしょうか。

ただ、全体的な構造上の工夫から、過去と現在が交錯するようなものであっても、

読み終えて、ストーリーを時系列で再構築してみれば、「なるほどね」とはなったような。


こう考えてくると、「現代音楽」「現代アート」のような「現代的な小説」というのは、あるんでしょうか?

あるとしたら、どういう小説を言うのでしょうか?


福永 信「コップとコッペパンとペン」 とまあ、知ったふうな前置きが長くなりましたけれど、

ふと手にとった福永信さんの「コップとコッペパンとペン」は、

非常に平易な語り口ながら、極めて前衛的な気質を持つものと言えそうです。


表題作の冒頭からして、こんなふうです。


いい湯だが電線は窓の外に延び、別の家に入り込み、そこにもまた、紙とペンとコップがある。この際どこも同じと言いたい。

はぁ??っと思うんですね。

でも、きっとお風呂のシーンから何かなんだなと気を取り直して、

先を読み進むことにすると、「図書館で調べものをしていると…」と続くわけです。


でもって、図書館にいた早苗の話かと思うと、たちどころに早苗は結婚していて、お腹に子供もいるという。

あっという間に早苗は死んでいて、子供は大きくなっており、父親が蒸発して祖父と住んでいると展開。

冒頭4ページほどで、この展開はめまぐるしいともいえますけれど、

つながりを説明するということがない。


行間にブラックホールがあるかのようなのですね。

これはもう、全文を書き写すか、読んでいただくしか、表現のしようもありません。


つまらないとは言い切れないのですけれど、面白いと簡単に言えるものでは到底ないわけです。

「独特な世界」としか言いようがない迷宮に、

あえて迷い込むことが「また楽しからずや」とは言えるかもしれませんが、

文学の世界にも、やはり実験的現代はあったのだなぁと、深く深く思ったのでありました。