・・・ここがそうなのだ。家庭なのだ。ここが、この場所が。スーツケースに荷物をつめて上京してきたのがこの部屋なのだった。まだ十七のころ、憧れていたのがこの場所だったのだ。愛らしく品よく育って、一人前になったのも、ここが目当てだったのだ、部屋中いっぱいに、身動きもならず、がらくたが散らばっていた。膝も埋まるほど。目には見えないけれど、こなごなに砕けた夢のかずかず、微塵にくずれた希望のかけら、無慚についえたアーチの夢が。 夜更けなど、ひくく声を殺して、そっと泣いたこともあった。しかし普段の夜はもっと始末が悪かった。涙も涸れて、なんの感情も、なんの関心もなく、ただ横になっていた・・・。
先に読んだコーネル・ウールリッチ(アイリッシュはウールリッチの別名)の評伝
では、推理過程の唐突さといったものをかなり問題視していたのですけれど、
アイリッシュの物語の中で探偵役を務めなくてはならなくなった登場人物たちが
実はシャーロック・ホームズでもなければ、エルキュール・ポアロでもない、
つまりは特別に推理能力に秀でたような人物ではない(例え探偵役が刑事であったとしても)
そこらにいる普通の人なのだということを、読者はよくわかっているわけですなのですね。

ですから、例えとっぴな推理が展開されても、そのことに違和感を感じる以上に、
普通の人がなけなしの知恵を絞って推理せざるを得ない状況におかれてしまったという
緊張感を共有できる。そのことが、ウールリッチの紡ぐ物語の生命線なわけです。
改めて、この「暁の死線(Deadline at dawn)」を読んでみて、かように思ったのでした。

ウィリアム・アイリッシュ「暁の死線」

本作の主人公クィン・ウィリアムズとブリッキー・コールマンは、
それぞれ大いなる夢を抱いてニューヨークに出てきたものの、
「都会なるもの」に飲み込まれて足掻きながらも、出るに出られない状況に追い込まれています。

出会ってから、偶然(この偶然を許せないと、アイリッシュは読めないのですが)にも
同郷だということの判ったクィンとブリッキーは夜中じゅうに目の前に投げかけられたトラブルを解決して、
朝6時に出発するバスで故郷へ帰るべく悪戦苦闘を始めるのですね。

ここでは、ネヴィンズJR.(「コーネル・ウールリッチの生涯」の著者)が指摘するように、
「なぜ翌朝6時のバスに乗らなくてはならないのか?次のバスでは何故行けないのか?」
と冷静に考えて「おかしいじゃないか」ということは言えなくはありませんが、
都会から脱出できるかどうかという「都会との勝負」には、いつでも帰れるというようなことではなくって、
明日朝のバスでなくては都会の魔の手に絡めとられて、
永遠に帰れなくなる!くらいの決意が必要なのですね。

ですから、ミステリーというジャンルではありながら、論理性は二の次であっても、
どれだけ読者に感情移入させられるかがポイントになるわけです。
 
はっきり言って、結末もご都合主義以外の何ものでもないとは思うのですけれど、
そこまで読者をつかみ続ける力量は、
ウールリッチ(アイリッシュ)ならではだと認めてやってよいのではないでしょうか。

所謂フーダニットの推理小説ではおよそお目にかかることのないような、
冒頭に引用した描写を、いったいどんなミステリー作家がしたでしょう。
やっぱり孤高の作家だったのだろうと思ってしまうのですね。