展覧会に行って絵があるのは当たり前なことでして、
単に展覧会と言った場合の「展覧会」も、絵と言った場合の「絵」も普通名詞なわけです。

ところが、いざ「展覧会の絵」と言ったときに、この言葉がいわゆる普通名詞でなくって、
ムソルグスキー作曲、独奏ピアノのための組曲「展覧会の絵」だなって思う人は結構いるんではないでしょうか。中には、ELPを思い出す方がおられるかもしれませんが・・・

ということで、演奏会で組曲「展覧会の絵」を聴いてきました。
もっとも、新日本フィルの演奏ですから、ラヴェルが編曲したオケ版ですけれど。

クラシックの演奏会に出かけるときには、結構曲目で選んでしまうのでして、
これまで生演奏で聴いたことないのを探して出して出かけたりするわけです。

でも、中には聴いたことのある曲が混じることは当然あるわけですが、
CDで同じ曲を聴くときにはもはや聴きなれているがために、聴き流してしまう曲でも、
実際目の前で演奏されると、とんでもなく聴き栄え(?)のするものがあります。
まさに、この「展覧会の絵」などはその類いなのですね。

トランペットで第1曲「プロムナード」(展覧会で絵と絵の間をぶらり、歩いて風情らしい・・・)が始まると、
「知ってる、知ってる」と油断するのですけれど、
「おお、こんなところでこんな楽器がこんなことをやっていたのか?!」と気付いてきます。
こうなると、面白さ全開なわけです。

しかし、よぉく考えてみると、ムソルグスキーが友人のヴィクトル・ハルトマンの展覧会に出かけて、
そこで見た絵の印象から作り上げた小品集がそもそものピアノ組曲「展覧会の絵」なのでして、
ピアノ版で聴くと静かな美術館を移ろっている感じや
それぞれの絵の印象なんだなという雰囲気が感じられるように思えます。

ところが、これをラヴェルが管弦楽用に編曲したときに、
どれほどハルトマンの絵を意識したんでしょう?
はっきり言って、ムソルグスキーの曲のそれぞれの調子でもって、
管弦楽にしたんではないかと。
もっともはっきり言うと、もともとの絵などは全く気にしないで
編曲したんではないかと。

こうなると、この曲は果たして「展覧会の絵」と言えるんでしょうかね。
先に、聴き栄えのする曲と言いましたけれど、
ラヴェルの編曲は本当に見事で、
楽しさてんこ盛りに仕上がっています。
楽器の種類や奏法も自由自在、
曲調もピアノ版を相当デフォルメしたと言ってよいくらい。

どの曲も皆大袈裟な仕立てですが、
取り分け最後の「キエフの大門」などは聴いてる分には、
どんな豪壮な建築物だろうと思えてくるのですが、
実際はこういう絵ですから。

というふうに考えてくると、ムソルグスキー作曲、ラヴェル編曲の「展覧会の絵」は、
有名な管弦楽曲として(普通名詞ではない)固有名詞となったと言えると同時に、
本来の「展覧会に飾られた絵」とはかけ離れた音楽が聴こえてくる曲として、
本来の意味から離れているのに「展覧会の絵」という言葉でひとり立ちできてるという点でも、
固有名詞化したと言えるような気がしてきます。

ちなみに、ジョセプ・カバリエ・ドメネク指揮による新日フィルの、本日の演奏もなかなかの熱演でありました。
そして、また「キエフの大門」などと、ウクライナがらみから抜け出せないのかなとも思ったりしたのでした。