ウクライナへの興味
から、チャイコフスキーの交響曲第2番「小ロシア」
にたどり着いたついでに、
チャイコフスキーの生涯を読んでみました。
前にも書きましたけれど(閉鎖されてしまった前のブログ だったかな・・・)、
キリスト教東方教会(ビザンツ教会)の流れを汲むロシア正教では、
典礼の際にいっさい楽器を使わなかったことから
器楽曲の発展というのが、西欧社会に比べて大きく遅れをとったと言います。
しかし、教会音楽としての器楽が発展しないにせよ、
教会から離れたクラシック音楽の潮流は、
どうしたって西側から流入してくるのですよね。
ロシアのクラシック音楽の開祖みたいに言われるミハイル・グリンカが、1804年生まれですから、
(代表作「ルスランとリュドミラ」序曲は「どんだけ早く演奏できるか、勝負!」みたいな曲)
モーツァルト(1756年生)やベートーヴェン(1770年生)が活躍していた時代には、
クラシック音楽の世界では、ロシアの「ロ」の字も出なかったのかもしれません。
ともかく、グリンカあたりが切り開いた器楽の道を、西欧と一直線に繋がったハイウェイに仕立て上げたのが、
1840年生まれのピョートル・イリイチ・チャイコフスキーと言えそうです。
時のロシア音楽界は、アントン、ニコライというルービンシュタイン兄弟が仕切っていたのですけれど、
後に絵画の世界で、印象派がサロンにたて付いていたように、
ルービンシュタイン兄弟が考えていたアカデミックな音楽に対して、
若いチャイコフスキーはあれこれ新たな試みを投げかけては「めった斬り」にされるわけです。
今では、十代のソリストでも平気で弾いている、ピアノ協奏曲第1番やヴァイオリン協奏曲なども
「こんなの、弾けるか!」みたいに酷評されるのですね。
こうした酷評にへこみつつも乗り切り、男好きという性癖の悩みも乗り越えつつ、
「白鳥の湖」やら「くるみ割り人形」やらと、「このメロディはどっかで聞いたことがある」という人たちが
今でもたくさんいるような名曲を残したのは、全くもって大したものです。
1893年、最後の大曲、交響曲第6番「悲愴」を書き上げ、自身の指揮で初演をしますが、
その10日ほど後には急死してしまいます。
死因はコレラというのが定説ですけれど、男色を非難された末の服毒自殺などという説もあるとか・・・。
最後の曲のタイトルが「悲愴」であることやあまりに急な死亡は、
何らかのフィクション味を加えても、ちょっとしたストーリーを捻りたくなるところです。
チャイコフスキーの知られざる曲でも掘り出して聴きながら、思案をこらしてみましょうか。
*今回は、上の画像で紹介した本を読んだのですけれど、残念ながらお義理にも上手い文章とは言えず、もしチャイコフスキー関連書籍を読むなら別ものがよろしいのではないでしょうか…