悪い時代への対策として、パウロは意外にも今の時を生かして用いれと言っている。この言葉の原語では「すくい上げる、救い出す」という意味を持つ。
救いとは、滔々たる川のように、流れる時間の中に身を埋めて流される人生ではなく、自分が主体的に時間をすくい上げなければならないということだ。
時間を創造した神様が時間の中に入ってこられた。それがイエス・キリストだ。
永遠の時間と接続させるためにその方がすることは私たちを流れる時間、一時的ですぐ終わる時間の中で救い出されることだ。
従って永遠という時間は神様が誰かを知ること、神様との関係に入ることだ。
「クロノス」は物理的で、誰にも同じ早さで流れる時間を、「カイロス」はすくい上げた、永遠に接続された時間、神様の前で新たな価値と意味を持つ時間を意味する。そしてこれを悟るのが救いだ。
人間はクロノスの時間をすくい上げ、永遠の時間であるカイロスにするため、生きていくべき存在だ。救われた人の時間割は変わる。礼拝を神に捧げると言うが、実はそれはすくい上げる時間だ。一日を始める時間からすくい上げて、その時間を永遠へ移す人生を生き始める変化が起こるのだ。
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何が祈副的なのかに対する基準は人によって異る。例えば、哲学的信仰を持っている人は生に意味をもたらすのを真理だと思い、民族主義者は民族の啓蒙や新歩が信仰だと思うだろう。勿論金銭や物質から離れられない人には経済的豊かさをもたらしてくれるのが信仰であるはずだ。だが、そのすべての部分が、自分の価値の中に神を閉じ込めておくという点では祈副主義が持っている信仰的実用主義の枠組みから抜け出せずにいる。信仰の真髄は神様だけに焦点を合わせることだ。
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「ミツバチは1グラムの蜜を集めるために、約125輪の花をさがし回る。 ミツバチは冬を越すために一生懸命蜜を集める。いつか、学者たちが冬のない熱帯地方にミツバチを移して観察した。移されたハチたちはいつも通り熱心に蜜を集めた。たぶんもうすぐ冬が来るだろうと思って頑張って蜜を集めた。しかし、いくら蜜を集めても冬は来なかった。ハチたちは急に怠けてきた。蜜はあふれ冬は来ないため、もう蜜を集める必要がなくなったからだ。
ところで以前になかった現象が生じ始めた。ハチが鋭く変わって人々を攻撃し始めたのだ。ハチに冬という目標がなくなると、自分の役割を投げ出して怠けただけでなく、鋭く鋭くなって人まで攻撃するに至ったのだ。」 (引用)
... 人生の目的、つまり希望やビジョン ...
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アブラハムに神に対する全的な信頼がなかった時代、彼がうっかり眠りに落ち神様からの約束から外れていた間に、神様が裂かれた動物の間をたいまつの火を持って通られた。(創世記15)
神様はご自分に誓う。「私,エホバがアブラハムにした約束に対して,自ら変改したり、心を空しくしたり、忘れたりすれば、この裂かれた動物のように、私の人格は壊れ、栄光は吹き飛ばされ、世の中で私の存在は消えるだろう。」人が知らないうち、神は神の仕事をなさる。
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神様は隠密(Free)な中にいらっしゃる。(、隠れたことろにおいでになる)別に人前にご自分の存在を人達の前で示すか知らせる必要がない。
「I am who I am./ わたしは有って有る者。」 -出エジプト3:14(モーゼの灌木)
*原文の意味:誰かがわかってくれたり認めてくれるから存在するのではなく、有って有るのだ。つまり、誰かが認められば存在し、否定すればいなくなる存在ではないということである。
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「ホルミシス効果とは、毒性物質でも少量なら人体に良い効果をもたらすということだ。代表的な例として低線量の放射線治療が挙げられる。
ホルメシスをよく把握すれば、ストレスが無条件に悪いという解釈を警戒するようになるだろう。若干の騒音、空腹、毒性、批判などは、私たちを利する。延いては、ストレスの根源を取り除くことが、明らかに有害な結果をもたらす恐れもあるのだ。」(引用)
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羊の特徴
1.絶えず保護を受けなければならない弱い存在。自分を保護する機能もなく、速く走ることができず、うまく逃げることもできない。たまにいる角のある羊でさえ、敵と戦う時ではなく、自分たちで戦う時角を使う。
2.方向感覚が良くないことで有名で、視力が悪くて近視眼的だ。そのためよく道に迷い、元の位置に戻るのも難しい。
3.頑固で愚かな動物として知られている。 ...
あなたならどっちらを選ぶだろうか。
オオカミや荒々しい動物が攻撃しない、ニュージーランド大草原で悠々自適することができるが、牧子はいない羊
OR
死の陰の谷が立ち並んでおり、喉が渇く劣悪な環境だが牧子のいる中東の羊
前者を選べば大変なことになる理由がある。
「...ある日、見えなかった牧者が現れるのだ。その日はみんな緊張する。その日はまさに屠殺場にへ連れていかれる日だからだ。」 -引用(書籍)
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ニュージーランドの大草原のような場所へ導き、どんな演壇も訓練もせずに丸々と太った羊を飼っている神様がいるとすれば、それは食べるために飼うことだ。
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多くの人々に会うたびに、はっきりと感じることがあります。まるで戦場の軍人達が倒れているような感じがします。近づいてみれば死んだのではありません。瞳も回って、頭に考えもあるし、話もできます。ところが、手と足に力が全くなくて、みんな倒れているような感じがします。軍事としての役割に耐えることができないのです。言葉や考えだけで戦うことはできないためです。戦い方が分からないわけではありません。どうすれば良いか分かり、どうなってほしいという願いはあるが、何も動きません。その理由は、生きていく中で捧げる強力な祈りの力がないためです。
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聖書誤訳の代表的な事例。
「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨハネ15・2)
ヨハネ15:2の「取り除く」の原語:1. 取り除く 2. 持ち上げる
「当時の農事法」ブドウの木はスイカのつるのように地面を這い回る。
針金がありふれなかった当時、地面につく枝は元の根から養分の供給を受けられなくて良い実を結べなかった。
そんなにたくさんの実を結ばないブドウの木がある時、農夫はそれを取り除くのではなく、地面についた枝を持ち上げて、一つ一つ踏み石で石ころを当てる。
反対に、実り多い木からは極上品を得るために枝打ちをする。
実を結ばない枝はもっと持ち上げて良い実を結ぶようにし、たくさん実った枝は枝打ちできれいにしてくださる。
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民数記1章1節の「荒野」の原語にはワードプレー的な要素がある。
「荒野」」は「~から」と「言う、話す」が合わさってできた言葉だ。
即ち荒野 :(永遠な神様の国を教えてくださり、見せてくださるための)神様のお言葉があるところ
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(マタイ13:24-30)
...毒麦は麦と非常に似ている。さらに、麦よりもっと輝き、穀物が結ばれ始めると粒がよりしっかりしているように見える。したがって根を抜いてみなければ、麦が完全に実る前に麦穀と毒麦を区別するのは難しい。
しかし、以前に区別する方法がいくつかある。
1.派手なものは疑ってみなければならない。
人の目を引くために派手な色をしている毒キノコを探すのと似ている。自分の中に訴えながら、力を加えているのは何か。それが憎しみや欲望であれば、悪魔のいたずらである可能性が高い。虚しい和平、虚しい栄光などのものだ。
ナチズム、共産主義などは華やかな未来を約束して始まった。教会もだまされ、人々もだまされた。悪魔のたくらみであったことを認識できなかったのだ。
神様の仕事は決して華やかではない。むしろ、最初は微かに始める場合が多い。
甚だしくは偽りの十字架もある。たとえば、繰り返される暴力で人格が荒廃していく人のために祈りながら我慢すること、それは偽りの十字架だ。神は、人間の魂が疲弊してまで、神の仕事をしろと押し付けることは絶対ない。
2. 善と悪は光とそれに近づくほど濃くなる影にたとえることができる。ある人を通して神様のことが全うされた後、すぐその人の心の中で、悪魔の事が同時に浮かぶことができるということを常に認識しなければならない。
毒麦があるため、共同体は目覚めていることができる。イスカリオテ・ユダの裏切りを通じて、主は真の愛が何なのかを残った弟子たちに見せることができた。
歴史は終末に向かっているが、神はそうしてご自分の事を成し遂げていく。従って、聖徒が望む時に神の事が成し遂げられず、悪が勝利を納めるように見えるといって、気を落とすことが一つもないのだ。
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「あなたが悪と規定した彼らを引き抜こうとするが、むしろそれは成功できず、自身の中にある悪にに目を背けることになる。」と言っていらっしゃるのだ。これは共産革命が成功できない理由とも説明ができる。神様の言葉をつかんで、静かに新しい革命を始める時、それが世の中を変えていかれると信じる。
3. 悪の存在にもかかわらず、主である神様にはご自分の歴史を完成される自分がある。一般的に農家では7~8月ごろの粒が開かれ始める時に毒麦を抜くが、神様の経営ではそのままにしておく。本文の主人は、自分の畑に何が起こっているかをよく知っている。しかし自信があるのだ。そのままにしておいても主人の農業には差し支えがない。一緒に育たせても結局、毒麦は麦に触れることができない。これは神の経綸だ。
イスカリオテ・ユダは自分が毒麦と思ったのだろうか。違う。キリストを売った者として、世の終わりまで、毒麦の中の毒麦として残ることをもし知っていたら、その前に悔い改め、祈っただろう。
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自分に同じ質問をしてみるならどうか。麦と毒麦のうち麦だと自信を持って言えない人もいるかも知れない。麦もまた信仰が弱く、時たまに望まない罪を犯すため、毒麦みたいな行動をするが、麦は麦である。
自分が麦なのかどうかは一つを見れば分かる。麦は天国の子をいう。水と聖霊で生まれ変わった人々、すなわちキリストを自分の人生の救い主として迎えた人々が麦だ。これは神様だけが知っている部分だ。人が何とかできる問題ではない。非常にやさしいようで、非常に難しい問題だ。これに自信を持って答えることができないならば、その人の魂はとても危険な状態にあるかもしれない。
麦である人達には人生の表徴が伴う。最初はどん底から始めているようだが、福音に戻り、自分の肉を殺し、霊を生かそうとする。そのため、毒麦のようになろうとしても次第に神々しさを成していく。
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(マルコ15:7-15)
5日前までイエス様を救世主と呼んで王と称した彼らに、ピラトが重罪人と彼のうち誰を十字架にかけるべきか問うと、イエスをつけろと言う。ピラトが彼の罪についてもう一度問うが、彼らは怒って彼を十字架にかけて殺せと言う。
ついこの間まで彼らがキリストに従った理由は、彼が病気を治して悪霊を追い出したからだった。彼を通じて政治的な再建への希望を持った人達が十字架を背負ったキリストの姿を見て失望し、失望はすぐ怒りに変わる。
時々病気の治癒など奇跡を体験して信仰を持つようになる人達もいる。しかし奇跡を見て信じるよりも、見ないで信じる人の方が幸いだ。 イエスを信じた理由がなくなると急変した当時の人々のように、見えるものを通じて救われる人は多くない。
出所:複数の教会