ご訪問ありがとうございます
まずは、前回のblog「キリストの目に見えない臨在」について追記いたします
参考にさせて頂きました、ありがとうございます
抜粋いたしました。
①「惑わす者」(13:5)に対して、「イエスの名」
を名のって現われる者(13:6)や、「戦争や地震や飢饉」 に際して、「終末」を噂(13:7-8)する者たちに対して、 「自分自身のこと」(13:9)に対して、「 偽キリストや偽預言者」(13:22)とならないように、 「あなた方自身で」(13:23)、「気をつけよ」(blepEt e)と繰り返し、一切を前もって言っておく(13:23) のである。
②マルコは「イエスの弟子」と称する者たちの、「徴だ」、「
患難だ」、「キリストだ」、「終末だ」、「再臨だ」 などと宣教する人々の言葉や、 不安や恐怖を覚える社会の出来事に一喜一憂して騒ぐべきではない 。
③「患難」や「弾圧」はあるだろう。「終末」も来るだろう。だが、そう簡単に「終末」は「来る」ものではない。
④人間の誰にもわからない。「御子」も知らないのだから。誰にもわからない「終末」を意識して、「再臨の徴」を見分けて「
選びの者」になろうなどと思うな。 「神」は患難を生き残る者を生き残るべき者として「選びの者」
とし、集めるのだから。
⑤それぞれの人間にはみな「責任が与え」られており、「
仕事が託され」ているのだから、 しっかりと社会の中で自分のなすべき責任をしっかりと果たしてい こうではないか。
⑥それが、天地は過ぎ去っても、過ぎ去ることのない、「
イエスの言葉」に従がって生きることであり、「目覚めている」 こと ではないか。だから「目覚めていよ」。マルコは、「弟子たち」だけでなく「すべての人々」
にそう呼びかけているのであろう。
この要点を見ますと、エホバの証人は聖書でやっちゃいけないと警告していることをやってるんですね~
キリストの目に見えない臨在について、別の角度からお伝えします。
エホバの証人は、キリストは1914年から目に見えない状態で臨在しており地上に代表者を任命していると教えられています、みなさんのご存じの通りです。
出版物を見てみます。
塔04 3/1 13–18ページ『忠実な奴隷』は試みを首尾よく通過する
3.1914年以前,忠実な奴隷級の成員の多くは…その一部の人々は,以前の兄弟たちを「たたき」,キリスト教世界の宗教グループという「のんだくれ」と付き合うようになりました。
こんなことを書いているのを見つけました
7.…諸国民の定められた時はまさしく1914年に終わり,キリスト・イエスの治める神の王国が活動しはじめました。
8.その後1919年,予期しなかった事が起きました。こう述べられています。「真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』という叫び声が上がりました…活動へと招く声が響きました。「契約の使者」イエスは1918年に,神の会衆を検分して清めるためエホバの霊的神殿に来ていたのです。
15…西暦33年から確かに長い時を経た1914年,キリスト・イエスは王としての臨在を始めました。そして3年半後の1918年,神の霊的神殿に来て,「今は,裁きが神の家から始まる定めの時……です」というペテロの言葉を成就しました。
17…1919年にイエスが忠実な油そそがれた兄弟たちに増し加わった責任を託した時,「…わたしはあなたを任命して多くのものをつかさどらせる…」と述べたのは,いかにもふさわしいことです。…忠実な奴隷級は,王を代表して地上におけるその権益を増大させることにより,その喜びにあずかっています。
19.…検分の過程は1918年から1919年にかけて始まったにすぎません。忠実で思慮深い奴隷は,その時の試みを一つの級として通過しました。
この出版物を見て結論から言いますと、イエスの姿を見た人は誰もいないので全部ものみの塔の勝手な話ということですよね
塔05 1/15 15–20ページ神の王国の先触れが現実となる
3…当時、一つの聖書研究者のグループが、一般的な考えとは違い、キリストの帰還は目に見えないということを識別しました。イエスは天で即位した後、王として地上に注意を向けるという意味で帰還します。弟子たちは、目に見えないイエスの臨在が始まったことを、目に見える複合のしるしによって知るのです。
最初の要点の警告文章の①に当てはまってますよね~
あるサイトで書かれていたイエスの再臨の様子を参考にさせて頂きました。
稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように来る(マタイ24:27)
輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを地上のあらゆる種族は見る(マタイ24:30)
み使いを伴って来られる。(マタイ16:27)
イエスを信じる人々と共に来られる。(コロサイ3:4)
天に上って行ったのを見たときと同じ有様で、また来る(使徒1:11)
すべての目が彼を見る」(黙示録1:7)
このように聖書には、再臨されるキリストはだれの目にも明らかな形でしかも見える姿で来られると書かれています
信者本人たちは「わたしたちはこんなに一生懸命頑張っている!この努力は神に祝福される!終わりは近い!もう少しの辛抱だ!」とある意味では満足して過ごしているかもしれませんが、騙されていて本当の意味で幸せであるわけがないと私は思うんだけどなぁ…
騙される方が悪いという言葉を聞きますが、私は個人的には「自分たちの奴隷にするために騙して人の人生を奪っている」ものみの塔こそが諸悪の根源だと考えています