マルコ13:33-37 <目を覚ましていよ> 並行マタイ25:13-15、24:42

 

マルコ13 (田川訳)

33気をつけよ。眠らずにいよ。あなた方は、その時がいつであるか、知らないのだから。34それは、家を離れ、自分の家を離れる人が、下僕たちに責任を与え、それぞれに仕事を託し、門番には覚めているようにと命じるようなものである。35だから目覚めていよ。あなた方は、家の主人がいつ来るか知らないのだから。夕方か夜中か、鶏の鳴く頃か、朝か。36主人が突然来たって、あなた方が眠り込んでいるのを見つけたりすることがないように。37あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである。目覚めていよ」。

 

マタイ25

13だから、目覚めていよ。あなた方は、その日もその時も知らないのだから。14すなわちそれは、家を離れる人が自分の下僕たちを呼んで、その財産を託したようなものである。15それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与え、出発した。彼が出かけるとすぐに…

 

マタイ24:42

42だから目覚めていよ。あなた方は、あなた方のどういう日に来るか知らないのだから。

 

参ルカ21

34二日酔いや泥酔や生活上の思い煩いでもって自分の心が重くならないように、みずから注意せよ。かの日は突然あなた方のところにやって来る。35それは地の表のすべての場所に座すすべての者のところに、罠のように訪れるからである。36いかなる時も眠らずにいて、これらのことが生じる時にそこから逃れられるよう、そして人の子の前に立つことができるように祈れ」。

 

 

マルコ13 (NWT)

33 ずっと見ていて,目を覚ましていなさい。あなた方は,定められた時がいつかを知らないからです。34 それは,自分の家を離れ,自分の奴隷たちに権威を与え,各々にその仕事を[ゆだね],戸口番には,ずっと見張っているようにと命令して,外国に旅行に出た人のようです。35 それで,あなた方は,家の主人がいつ来るか,一日も遅くなってからか,真夜中か,おんどりの鳴くころか,あるいは朝早くかを知らないのですから,ずっと見張っていなさい。36 彼が突然に到着して,あなた方の眠っているところを見つけることがないようにするためです。37 しかし,わたしがあなた方に言うことは,すべての者に言うのです。ずっと見張っていなさい」。

 

マタイ25:13-15

13 「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,その日もその時刻も知らないからです。

14 「それはちょうど,人が外国へ旅行に出るにあたり,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物をゆだねたときのようになるのです。15 そして,ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました。…

 

マタイ24:42

42 それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちのがどの日に来るかを知らないからです。

 

参ルカ21

34 「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。35 それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。36 それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人のの前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。

 

 

 

マルコ福音書における本論部分の結びの段である。

 

14章以降の「受難物語」はマルコにとって付録のようなもので、届いた伝承にあまり手を加えず、再録することを編集の基本方針としている。

ただし、全く自分の視点を文章に組み込むことをしていないわけではなく、導入句や結びなどにもマルコ的な要素がかなり見られる。

 

マタイは、マルコとは構成を変え、この段を前段の続きには置いておらず、終末に関するたとえの一つである「タラントの譬」(25:14-30)の導入句として利用することにした。

 

マタイは前段の続きに、ルカ17章の並行となる「ノアの日」に関する終末伝承を置き、マルコの一部を結びの句として採用している。

 

ルカは、マルコのこの段をまるまる削除し、その代わりに終末に関するマルコとは異なる同種の伝承を組み込むことにした。

 

 

マルコは、「気をつけよ、眠らずにいよ」(blEpete agrypneite)と命令形現在でこの段を始め、何を言おうとしているのか。

 

マルコ13

33気をつけよ。眠らずにいよ。あなた方は、その時がいつであるか、知らないのだから。34それは、家を離れ、自分の家を離れる人が、下僕たちに責任を与え、それぞれに仕事を託し、門番には覚めているようにと命じるようなものである。35だから目覚めていよ。あなた方は、家の主人がいつ来るか知らないのだから。夕方か夜中か、鶏の鳴く頃か、朝か。36主人が突然来たって、あなた方が眠り込んでいるのを見つけたりすることがないように。37あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである。目覚めていよ」。

 

 

マルコの「気をつけよ」(blEpete)という語は、英語のlookに相当する基礎単語の一つ。

look at…という意味だけでなく、look to…という意味でも使われる。 

 

「眠らずにいよ」(agrypneite)の原義は、agreuo+hypnosで「眠気を捕える」。

眠気を捕獲して、眠気をやっつける、という趣旨。

 

NWTは33「ずっと見ていて、目を覚ましていなさい」。

 

マルコは続く節(34,35,37) でも繰り返し「目覚めていよ」(grEgoreite)と言っている。

「目覚めていよ」(grEgoreite)は、egeirOの仮定法完了形現在で、stay awakeという趣旨。

 

マルコにこの二つの動詞を区別している様子はなく、同義に使っているのだろう。

 

NWTは、34,35,37「ずっと見張っていなさい」。

原文の完了形を英訳NWTが、keep on the watchと訳しているので、「ずっと」を入れたのであろうが、「見張っている」だけでも完了の趣旨は伝わる。

 

「見張る」のであれば、「じっと」であろうし、継続的に長くという意味を強調し「ずっと」と訳したのは、WT教理との整合性を考慮したのであろう。

 

この語に強調の副詞を本文に入れて訳しているのは、NWTとリビング・バイブル(34「しっかり」、37抜け目なく」)だけである。

塚本訳が35節のgrEgoreiteだけに、(たえず)を( )付きで入れている。

果たして、( )も無しに本文であるかのように解釈を組み込むことが翻訳、あるいは字義訳なのであろうか。

リビング・バイブルは字義訳とは謳っていないが…。

 

それはともかく…

 

マルコは、前段で「終末」に関する「その日その時については、誰も知らない。御子も知らない」と「あなた方」に言い、この段でも「その時」に関して「あなた方」は「知らない」のだから、と釘を刺すのである。

 

続いて、マルコは一つの譬話を取り上げる。

 

マルコ13

34それは、家を離れ、自分の家を離れる人が、下僕たちに責任を与え、それぞれに仕事を託し、門番には目覚めているようにと命じるようなものである。35だから目覚めていよ。あなた方は、家の主人がいつ来るか知らないのだから。夕方か夜中か、鶏の鳴く頃か、朝か。36主人が突然来たって、あなた方が眠り込んでいるのを見つけたりすることがないように。

 

マタイ25

14すなわちそれは、家を離れる人が自分の下僕たちを呼んで、その財産を託したようなものである。15それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与え、出発した。彼が出かけるとすぐに、

 

 

マタイはマルコの「家を離れ、自分の家を離れる人」(anthrOpos apodEmos apheis tEn oikian autou)の「家を離れる人」(anthrOpos apodEmOn)だけを採用し、マルコの「それぞれに仕事」(to ergon autou)を「その財産」(ta hyparchonta autou)に変更し、「タラントの譬」に合わせて導入句としている。

 

マルコの「家を離れ、自分の家を離れる人」(anthrOpos apodEmos apheis tEn oikian autou)をNWTは「自分の家を離れ、…外国に旅行に出た人」と訳している。

 

原文の並びは「人」「(地元を)離れる」「離れた」「自分の家を」となっており、apodEmosという形容詞に「外国旅行に出る」という意味があるわけではない。

分離を意味する接頭語apo+dEmost(地元、居住地)が原義であり、「自分の家を離れる」と続いているので、この人が「離れる」のは「自分の家」を指していることが理解できる。

 

要するに、マルコのギリシャ語が拙いだけで、二重表現になったもの。

「新車の新しい車を買った」というようなもの。

 

原文に「外国に」とも「旅行する」などとは書かれていない。

接頭語apoがついているだけの形容詞を「外国に旅行に出る」と訳したのは、WT教理を読み込むためであろう。

 

マルコの、家を離れる主人が下僕に仕事を託し、いつ戻るか知らない、とする話は、これだけでは何とも中途半端な感じがする。

 

というのは、マタイでは「いちじくの木」の譬の後に、「キリストの再臨」に関するいくつもの話もあり、「タラントの譬」でも詳しく解説されている。

 

マタイを読んでからマルコを重ねて読めば、「家を離れる主人」を主題とした「再臨」話の譬として読んでしまうからであろう。

 

しかしマルコに書かれていることをマルコが書いたままに読むと、この譬も「キリスト再臨」を主題としているのではないことに気付く。

 

マルコは、「自分の家を離れる主人」の譬を通して、「主人の再臨」ではなく、何を伝えたかったのか。

 

マルコは「それは…のようなものである」(hos…)という副詞を冒頭に置き、譬えを始めている。

 

前の文の「その時がいつであるか、知らないのだから」という言葉を受けて、「それは…ようなものである」という語で譬えを始め、「目覚めているいようにと命じる」という句で文を終えている。

さらに続く節で、「だから目覚めていよ」と続いている。

 

つまり、「目覚めているように命じるようなものである」という趣旨の文に、「だから目覚めていよ」という文が続いているのだから、話の主題は「目覚めている」ことにある、と読める。

 

「眠らずにいよ」と注意を促し、「目覚めている」ことを主題とする譬えを話し、だから「目覚めていよ」と話を続けていく。

 

「目覚めていよ」と繰り返し、繰り返し強調するのであるが、その理由は、「あなた方は、家の主人がいつ来るか知らない」のだから、と繰り返すのである。

 

「主人が突然来た時に、眠り込んでいるのを見つけたりされないように」という言葉も、「主人がいつ来るか知らない」のだから、「目覚めていよ」ということの繰り返しである。

 

マルコは、さらに「目覚めていよ」という呼びかけをくり返す。

 

マルコ13

37あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである。目覚めていよ」。

 

 

マルコは、最後に、「あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである」という言葉を添えて、もう一度、「目覚めていよ」と繰り返し、マルコは福音書の本論(1-13章)の結びの言葉とするのである。

 

マルコのイエスは、弟子たちが神殿に心酔している言葉に反論する形で、これらの巨大な建造物を「眺めているのか」(blepeis)と言って、ペテロたち四人に終末予言を語り始める。

 

その13章では、「眺めている」と同じ動詞(blepO)を使い、「あなた方」に対して、繰り返し「気をつけよ」(blepEte)とくり返すのである。

 

「惑わす者」(13:5)に対して、「イエスの名」を名のって現われる者(13:6)や、「戦争や地震や飢饉」に際して、「終末」を噂(13:7-8)する者たちに対して、「自分自身のこと」(13:9)に対して、「偽キリストや偽預言者」(13:22)とならないように、「あなた方自身で」(13:23)、「気をつけよ」(blepEte)と繰り返し、一切を前もって言っておく(13:23)のである。

 

そこには、ペテロたち一番弟子に対する批判を込めているのだろう。

 

マルコは、前段で「終末」に関する「その日その時については、誰も知らない。御子も知らない」と「あなた方」に言い、この段でも「その時」に関して「あなた方」は「知らない」のだから、と釘を刺すのである。

 

13 章の「あなた方」とは、直接的には、ペテロたち四人の弟子たちに対する注意であり、警告であり、呼びかけ、という形式になっている。

 

マルコではペテロとヤコブ、ヨハネとアンドレの四人は、最初にイエスの弟子となった者たちである。

 

とすればそこには、当然彼ら個人だけではなく、彼らを中心としてキリスト教を興した初期キリスト教団に対する批判が込められているのだろう。

 

しかし、最後に「あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである」という註を加えている。

 

「弟子たち」に対する批判と忠告という形式を取りながら、「すべての人」(読者)に対しても、同じ「呼びかけ」をしているのである。

 

マルコは、「家の主人」が、下僕たちに「責任を与え」、それぞれに「仕事を託し」、門番には「目覚めているように」と命じた、とする譬えで、何を呼びかけているのだろうか。

 

「弟子たち」だけにではなく、「すべての人」にも、「目覚めていよ」と言うのである。

 

 

マルコは「イエスの弟子」と称する者たちの、「徴だ」、「患難だ」、「キリストだ」、「終末だ」、「再臨だ」などと宣教する人々の言葉や、不安や恐怖を覚える社会の出来事に一喜一憂して騒ぐべきではない

 

「患難」や「弾圧」はあるだろう。

「終末」も来るだろう。

だが、そう簡単に「終末」は「来る」ものではない。

人間の誰にもわからない。

「御子」も知らないのだから。

誰にもわからない「終末」を意識して、「再臨の徴」を見分けて「選びの者」になろうなどと思うな。

「神」は患難を生き残る者を生き残るべき者として「選びの者」とし、集めるのだから。

 

それぞれの人間にはみな「責任が与え」られており、「仕事が託され」ているのだから、しっかりと社会の中で自分のなすべき責任をしっかりと果たしていこうではないか。

それが、天地は過ぎ去っても、過ぎ去ることのない、「イエスの言葉」に従がって生きることであり、「目覚めている」ことではないか。

 

だから「目覚めていよ」。

 

マルコは、「弟子たち」だけでなく「すべての人々」にそう呼びかけているのであろう。

 

 

マタイは、マルコの「眠らずにいよ」(agrypneite)を同義の「目覚めていよ」(grEgoreite)に変え、「いちじくの木の譬」(24:32-36)に続く、終末伝承の譬の一つである「ノアの日」伝承(24:37-42)の結びに採用している。

「だから目覚めていよ。あなた方はあなた方の主がどういう日に来るか知らないのだから」(24:42→13:35)

 

さらに「十人の花嫁の譬」伝承の結びにも採用している。

「だから目覚めていよ。あなた方は、その日も時も知らないのだから」(25:13→13:33)

 

そして、マルコの続く部分を「タラントの譬」の導入部に置くことにした。

 

マタイ25

13だから、目覚めていよ。あなた方は、その日もその時も知らないのだから。

14すなわちそれは、家を離れる人が自分の下僕たちを呼んで、その財産を託したようなものである。15それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与え…

 

 

マタイは、マルコの終末伝承の結びである「あなた方に言うことはすべての人々に言うのである」という句を削除している。

 

マタイは「弟子たちが自分たちだけで」イエスに質問し、終末伝承を始め(24:3)、一貫して「あなた方」に対して語った終末伝承としている。

 

マタイは、タラントの譬話の中で、マタイ流の終末論を展開しており、キリスト信者は終末に備えて、タラントに応じて此の世で与えられた責任に対して、常に最善の結果を意識して取り組まなければならない、という説教としている。

 

一タラントを受け取るが、精算の時に、余分のタラントを儲けなかった下僕は役に立たない下僕として外の闇に投げ出されてしまう。

 

マタイ派キリスト教では、自分の限界まで追い込んで結果を出さないと、怠け者と認定され、持っているものまで取り上げられた上、嘆こうが歯がみしようが、情け容赦なく、切り捨てられるのである。

 

マタイ派キリスト教では、すべての民族も羊か山羊かに分けられてしまう。

 

再臨のイエスを見分けられなかった者には、永遠の懲らしめが待っているが、マタイ派キリスト信者の最も小さい者たちの一人を世話する者は「義人」とみなされ、「永遠の生命」が待っているのである。

 

マタイは終末伝承の様々な譬えを語った後、「イエスはこれらの言葉をすべて終えた時に、彼の弟子たちに言ったのであった」(26:1)と受難物語を始めている。

 

この文に主語の交代はなく、マタイは、「終末」伝承のすべてを「彼の弟子たち」だけに語ったという設定にしているのだろう。

 

そのおかげでマタイの「終末」における「選びの者」とは「弟子たち」だけが関係する話となっている。

 

マタイ派キリスト教をキリスト教理解の基礎に据えてしまうと、愛の名を語り、排他主義を正当化する選民思想のユダヤ教的キリスト教が出来上がるように思える。

 

マタイはマルコの批判したキリスト教を正統派キリスト教に書き変えたのである。

 

 

ルカの伝承はマルコと同じく「いちじくの木」の譬伝承の後に置かれているが、マルコの伝承とは異なる伝承である。

 

マルコ13

33気をつけよ。眠らずにいよ。あなた方は、その時がいつであるか、知らないのだから。34それは、家を離れ、自分の家を離れる人が、下僕たちに責任を与え、それぞれに仕事を託し、門番には目覚めているようにと命じるようなものである。35だから目覚めていよ。あなた方は、家の主人がいつ来るか知らないのだから。夕方か夜中か、鶏の鳴く頃か、朝か。36主人が突然来たって、あなた方が眠り込んでいるのを見つけたりすることがないように。37あなた方に言うことは、すべての人々に言うのである。目覚めていよ」。

 

参ルカ21

34二日酔いや泥酔や生活上の思い煩いでもって自分の心が重くならないように、みずから注意せよ。かの日突然あなた方のところやって来る35それは地の表のすべての場所に座すすべての者のところに、罠のように訪れるからである。36いかなる時も眠らずにいて、これらのことが生じる時にそこから逃れられるよう、そして人の子の前に立つことができるように祈れ」。

 

 

マルコとルカの共通箇所は、「眠らずにいよ」(agrypneite)という動詞ぐらいで、他は同じような意味でも異なる語を使っている。

 

マルコの「気をつけよ」(blepete)に対し、ルカの「注意せよ」(proschete=pros+echO)は別の語源の動詞。

マルコの「その時」(ho kairos)に対し、ルカは「かの日」(hE hEmera ekeinE)と別の表現。

マルコの「突然」(exaiphnEs)は接頭語(ex)付きの副詞に対し、ルカの「突然」(aiphnidios)は接頭語なしの形容詞。

マルコでは「家の主人」が「来る」(elthOn)のであるが、ルカで「やって来る」(epeleusutai)のは「かの日」であり、主語も動詞も異なっている。

 

マルコとルカでは視点が異なっており、明らかに別伝承である。

 

ルカには結びに「人の子の前に立つことが出来るように祈れという説教が付加されている。

「人の子の前に立つ」という表現は、マルコにもマタイにも登場しない。

おそらくルカは、マルコを削除し、ルカの教会で言われていた説教をここに全部差し替えたのであろう

 

 

この話の後、マルコもマタイもルカも、受難物語伝承へと移っていく。